ホーム » エッセイ » 日本を『原発ヅケ』にしたのは誰なのか?原子力ムラの司令塔、その意外な正体!〈第2回〉
【日本のメディア王にして、日本の病根を作った男】
[徹底した大衆への迎合、そして洗脳]
エコノミスト 2012年12月22日
1923年の秋、日本共産党が結党された直後、東京、横浜を関東大震災が襲い、続いて大火災が発生し、10万人が犠牲になりました。
それに続き、風評に踊らされた朝鮮人虐殺が発生しました。正力はこの事件を陰で煽った可能性があり、今度はその攻撃の矛先を社会主義者に向けました。
そしてその数カ月後、職務上の災難が正力を襲いましたが、政治上の繋がりによって正力自身は転身に成功することになります。
1923年12月27日、正力の目の前で自動車で貴族院へ向かっていた皇太子(後の昭和天皇)が社会主義者に狙撃される虎の門事件が発生、警視庁警務部長の正力は懲戒免官になりました。
警察を放り出された彼の脳裏に、新聞社は社会に対する影響力を持った事業であるという考えが浮かびました。
当時読売新聞社は、関東大震災で大きな被害を受けた後、本社を再建しようとして奮闘中でした。
当時の金額で10万円あれば、その経営権を握ることが可能であることが正力に伝わり、彼は金策を始めました。
彼は右翼の大物政治家のもとへ行き、資金援助を要請しました。
投資は成功しました。
読売新聞は国権主義の先鋒として、日本の言論界に君臨することになったのです。
正力がこうした変貌に強く関わった証拠は、読売新聞社本社ビルの6階にある図書室にあります。
ただし小さな漢字で書かれた当時の新聞記事を読むためには、図書室の司書から拡大鏡を借り出す必要があります。
ともあれ、正力の下で書かれたこれら記事が、現在の冷静に事実を伝える新聞記事と比べ、その主張は一目瞭然です。
これらはみな日本の大正時代に起きたことであり、当時の日本社会は戦前の昭和とは明らかに異なる、民主主義と個人主義的傾向が横溢した時代でした。
それは当時流行った『エログロナンセンス』という言葉に集約されています。
正力は「グロテスク」を「グロティック」、「エロティック」を「エロテスク」と誤って覚えているほどの英語音痴でしたが、正力の読売新聞のセールストークになりました。
売るためなら手段を選ぶな。
読売はグロテスクな記事でなければ、不倫の話、そして一世を風靡したモダン・ガールズ達の写真で読者の気を惹きました。
性病の病院の広告には、こんなものまでありました。
「年末のパーティの季節が来る前に、淋病をなおしませう」
当時日本ではラジオの普及が進み、そこから流れる流行歌が大衆の人気を博してしました。他の新聞は無関心でしたが、読売はラジオから流れる流行歌の歌詞を特集するページを作りました。
1931年、日本が満州事変をきっかけに中国東北部全域を侵略すると、より発行部数の大きかった東京のライバル、朝日と毎日を一気に抜き去るチャンスを手にしました。
読売はこれを機に夕刊を創刊、刻一刻と中国の前線から送られてくる情報を掲載し、待ちわびる読者の手元に届けたのです。
その2年後、今度は正力自身の名を世間に売り出す機会が巡ってきました。
読売の編集者が心中による自殺率の上昇に気づきました。
当時最も『一般的』な方法は、手に手を取って東京から船で何時間もかかる三宅島にある三原山の噴火口に、手に手を取って身投げをすることでした。
その数は一年で944人に上りましたが、軍国主義が台頭しつつあった当時の日本において、こうした行為は愛国主義に背を向けるものだとして批判的に見られていました。
▽火山の中へ
日本人は今何に身を捧げるべきか、世の中に警告しなければならない、読売はそう考えました。
世間の注目を集めようと、読売は記者とカメラマンを『取材』のため、ゴンドラを使って三原山の噴火口の中にそれぞれ別々に降ろすことを告知しました。
読売は噴火口の中の毒ガスの状況を確認するため、まず2種類の動物を送り込みましたが、これもまた得難い見出しを読売に提供することになりました。
「麻痺して動けなくなったサル、死んでしまったネズミ」
今度はガスマスクを装着した記者が415m下まで降りて行き、読売はこれを世界新記録として宣伝しました。
記者の一人はゴンドラの内部に取り付けた電話を使い、火口内の死体の様子を伝えてきました。
それもセンセーショナルな話題になりましたが、自殺予防の効果は全くありませんでした。
血なまぐさいセンセーショナリズムに溢れた第一面は、喝采を持って大衆に受け入れられ、読売新聞の部数を大きく押し上げました。
1924年に58,000だった読売の部数は1937年には800,000にまで増え、ここに日本最大の発行部数を達成したのです。
▽バンザイ・ベイブ
イデオロギーのドグマ(教条)に商業主義のプラグマティズム(実利主義)織り交ぜる手法により、正力の経歴は作られて行きましたが、さらにもう一つの大きな要因が彼の後半生に現れることになりました。
アメリカとの関係です。
野球はその最初の実現手段でした。
彼は野球など興味はありませんでしたが、スポーツが新聞の販売に貢献することを知っていました。
問題は日本にプロ野球が無かった事です。
そこで彼はライバル紙の社主の助言に基づき、ニューヨーク・ヤンキースの伝説のスラッガー、ベーブ・ルースを日本に呼ぼうと考えました。
当初はベーブ・ルースの多忙で、1931年に来日し、満員となった球場で試合をした大リーグのオールスターチームにも加わっていませんでした。
しかし全盛期を過ぎ、体にも余分な脂肪がつき始めた1934年、ついにベーブ・ルースが来日しました。
その時は日本にとって国内的にも、そして対外的にも緊張が高まっていた時でした。1932年には、ファシストとしての熱意に燃えた軍人が日本の伝統精神の復活を呼号し、政府の穏健派を暗殺した5.15事件が勃発していました。
そして来日前年の1933年には国際連盟を脱退し、日本が世界に背を向け始めたそのタイミングでの来日は賛否両論を巻き起こしました。
しかし正力の目算は見事的中しました。
人々はベーブ・ルースとそのチームを熱狂的に歓迎したのです。
オープンカーに乗ったパレードを見るために、何万と言う人々が銀座に押しかけ、試合を見るため神宮球場にも大量の人があふれました。
試合は来日した側が僅差で勝利しましたが、観衆は試合結果など気にしていませんでした(正力は気にしていましたが)。
しかし誰もがベーブ・ルースの来日を楽しんでいた訳ではありませんでした。『武神会』という名の狂信的な右翼が、明治天皇に所縁のある神聖な場所を洋夷の靴で汚したことに抗議しました。
ほどなく彼はその『親米主義』を憎む元警官に日本刀で首を刺され、1リットルもの出血をし、危うく死にかけました。
しかし正力はこの程度のことで引き下がる人間ではありませんでした。
彼は読売巨人軍を設立、以来同チームは日本のプロスポーツ界において、独占的地位を築き続けています。
しかしこうして築いたアメリカとの関係も、太平洋戦争により複雑なものになります。
読売新聞は、他のライバル紙同様、日本軍の太平洋諸島への進出を熱狂的に煽りました。
さらに日本帝国軍が東南アジアに侵攻すると、読売新聞は各地に事務所を開設し、現地での新聞発行を行いました。
1945年、戦争が日本の敗北で終わると、正力の名は戦争犯罪人リストの上位に記載されることになりました。
彼は1940年に設立され、戦争の推進役となった大政翼賛会の総務に就任していたのです。
彼の新聞社は軍国主義の鼓吹を徹底して行った容疑を持たれていました。
いまいましいことに、彼を最も痛烈に告発したのは、正力自身が使っていた執筆者、そして編集者たちでした。
この時点で、読売の社員たちは正力に対する反抗に立ち上がりました。敗戦により日本を統治していたアメリカの自由主義的思想にふれ、左派系ジャーナリストの一団が読売内でクーデターを起こしたのです。
何か月間もこの内紛は新聞の一面を賑わせました。
正力が以後は出版人として生きようと決意した時、彼には戦争犯罪人の烙印が押されることになりました。
そしてその年の暮れには他の戦争推進者とともに、A級戦犯として巣鴨拘置所に収監されることになったのです。
〈第3回・[原子力発電という選択肢]につづく〉
http://www.economist.com/news/christmas/21568589-media-mogul-whose-extraordinary-life-still-shapes-his-country-good-and-ill-japans
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3.11と福島第一原発の事故発生以来、一部の日本の新聞報道について、なぜか太平洋戦争さなかの日本の新聞報道、あの『大本営発表』がオーバーラップしていました。
この記事を翻訳してみて、納得がいくとともに、暗澹とした気持ちになりました。
本質は変わっていないのではないか?!
そう思えて仕方がありません。
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【 2013年 世界の表情 】
アメリカNBCニュース 2013年1月3日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)
ウィンター・ワンダーランド。ハンガリーの首都ブダペストの東、220キロの森の中。1月2日。
凍結したドニエプル川の上を歩いて渡る男性2人。ウクライナの首都キエフ郊外。1月2日。
煙に覆われたギリシャの首都アテネ。貨幣価値の下落により、40パーセントも値上がりした灯油代を節約するため、アテネの空は薪を燃やす煙で覆われた。1月3日。
伸びる結界。イスラエル政府が公開したこの写真は、エジプトとの国境沿いに建設が続く巨大フェンスの一部を写したもの。エジプトからの侵入を防ぐため、イスラエル南部で延々と建設が続いている。1月2日。
シドニー・フェスティバルのため制作された、フロレンティン・ホフマンの有名なアヒルを巨大化したもの。高さは15メートル、幅は18メートル。オーストラリア、シドニー、ダーリング港。1月3日。
前衛芸術のような景色、雪原の中の渓流。ドイツ、バイエルン地方、1月6日。