ホーム » エッセイ » 小さな語り部:長崎原爆の惨禍を伝える日本の子供たち
核兵器攻撃を直接体験した生存者がますます少なくなるにつれて、小学生たちが体験談を伝える責任を担う
現在の日本の政治指導者たちは核兵器廃絶を真剣に望んでいない
ダニエル・ハースト / ガーディアン 2018年8月2日
毎月9日、長崎市立城山小学校の500人の生徒たちは講堂に集まり、歌を歌います。
しかしどこの小学校でも見られる校歌斉唱ではありません。
歌われる「子らのみ魂よ(子どもたちの魂に永遠の安らぎを)」は、学校の長い歴史の中で最も衝撃的な出来事を題材にしたものです。
第二次世界大戦の終了間際、米国が日本の南部にある長崎市に原爆を投下したことにより、1,400名の児童と28名の教職員が殺されました。
長崎は1945年8月9日、広島にはその3日前に原子爆弾が投下されました。
それから間もなく73年が経過しようとしていますが、この小学校はその記憶を後世に伝える特別な責任を感じています。
「城山小学校は長崎市の他の市立小学校に比べ、最も爆心地に近い場所に位置しています。」
と、穏やかな口調でこう語った校長の竹村博明氏は、爆心地はちょうど500メートル離れた場所にあると説明してくれました。
「この地では平和を願う感情はことのほか強いものがあります。」
原爆投下を直接体験させられた生存者が次々と亡くなっていく状況にあって、その役割はますます重要なものになってきました。
被爆者として知られるこれらの人々の数は過去20年間で半減しており、その平均年齢は82歳に達しています。
加齢とともに出歩くことも困難になり、世界的に緊張が高まっている世界に対し再び核兵器が使用されることのないよう、自ら出かけて行ってその攻撃のむごたらしさについて直接証言することが難しいという現実に直面することになりました。
こうした現実を受け、城山小学校の6年生は「ミニ語り部」としてより多くの責任を引き受け、訓練を受けています。
毎年、全国の約400の学校から数千人の生徒たちが城山小学校へ視察旅行に訪れ、原爆について学んでいます。
平和を象徴する鳩の姿が刻まれた学校の門を通り過ぎた来訪者の子供たちは、当時の城山小学校の生徒と教師の命が
「雲の上から襲ってきた白い閃光に包まれ、声を上げるいとまもなく虚しく散ってしまった」
状況を伝える歌詞を耳にします。
その後6年生は「ピース・ナビ」と名付けられた活動として古い建物の残骸を含め、学校周りの見学の案内をします。
少年少女の語り部たちはその時何が起こったかを丁寧に説明し、平和のメッセージを伝えているのです。
こうした活動は今年74歳になった内野節夫さんをはじめとする被爆者の人々に希望を与えています。
長崎に原爆が投下された時、内野さんはわずか1歳9ヶ月でしたが、そのとき防空壕に避難していたため最悪の事態だけは免れることができました。
「残念ながら私が生きている間に核兵器がなくなることは考えられませんが、次の世代には何か進展があることを期待しています。」
内野さんがこう語りました。
「だからこそ子供たちや若い世代の人々に自分の経験について伝えることが私の責任であり、義務だと感じています。体験した人間が伝えることにより、彼らは原爆を使うことがどれほど危険で恐ろしいことか、非人道的であるか、そして核兵器というものがいかに恐ろしく部残酷なものであるかを理解できるのです。」
▽ この世の地獄
長崎への原爆投下という事実は現在の子供たちにとって対峙すべき課題かもしれませんが、内野さん自身はまだ幼い時に長崎の爆撃の恐怖に向き合わなければなりませんでした。
内野さんは当日の直接の記憶はほとんどありませんが、内野さんが小学校4年生になったとき、両親が初めて当時の様子を詳しく話してくれました。
内野さんの母親は、頭をから上が無くなっているものも含め多数の焼け焦げた肢体を目撃していましたが、原爆が投下された後の様子について『この世の地獄』だったと表現しました。
暑かった真夏のその日、人々はなんとか生き延びようともがきながら水をくれと必死に叫んでいました。
内野さんはこうした体験談を聞いた子供達が、同年代の子供達にも同じ話を伝えてくれるよう望んでいます。
「小・中学生の少年少女やと若い人たちから感謝の言葉をたくさんいただいています。皆さん、家族とこの話を分かち合う決心をしてくれているのです。」
内野さんが誇らしげに語りました。
広島でも、地方自治体は当時の記憶を残すべく取り組みを行っています。
これまで、117人の大人が3年の訓練をすべてきちんと終了して「被爆体験伝承者」となり、これからさらに250人が加わるべく準備が進められています。
これらのボランティアの人々は被爆者の経験を「継承」し、視察のため訪れた人々や外国からの訪問者に平和のメッセージを伝える役割を担います。
広島市の平和推進部門の松島博隆氏は、
「日本の若者たちは被爆の事実についてはほとんど知識が無いという現実があります。」
と認めました。
広島と長崎で原爆投下73周年の平和祈念式典の準備が進められる中、両都市にガーディアンをはじめとする海外の報道機関が日本の外務省から招待を受けました。
広島、長崎の両都市は間も無く毎年恒例となっている平和宣言を行い、自らの経験をもとに世界中の指導者に対し、核軍縮を実現を求める呼びかけを行うことになっています。
核軍縮を実現することは口にすることほど容易ではありません。
被爆者の多くは日本が世界で唯一原子爆弾による攻撃を二度も受けた国であるにもかかわらず、安倍政権が最新の核兵器不拡散条約への調印を拒否したことに深刻な疑問を持っています。
「日本の政治指導者は核兵器廃絶を真剣に願っているわけではない、それが事実です。」
と広島が原爆による核兵器攻撃を受けた際、まだ母親の胎内にいた72歳の水戸幸世(こうせい)さんがこう語りました。
「これは私にとって最も腹立たしいことです。」
核軍縮運動に取り組んでいる人々にとって、最近の世界情勢は先行き悲観的にならざるをえない状況になる可能性があります。
アメリカ大統領のドナルド・トランプは米国と北朝鮮の緊張の高まりを受け、核兵器の保有量を増やすと公の場でうそぶきました。
その後の展開により米朝間で緊張緩和に向けた動きが見られましたが、朝鮮半島の非核化を目指すという北朝鮮の約束については具体的な進展の兆しは見えません。
しかし長崎大学核兵器廃絶研究センターの吉田文彦教授は、少なくとも一つの分野においては事態が前向きに進んでいると捉えることができる理由があると語りました。
多くの若者や働きざかりの人々が被爆者の体験談を真摯に受け止め、「今後、被爆者の方々の体験談を直接聞くことができなくなる新しい段階」の到来に備えようとしています。
吉田氏がこう語りました。
「73年前の出来事についてきちんと話すことができる新しい世代の人々が増えているのを、私たちは目の当たりにしています。」
https://www.theguardian.com/world/2018/aug/02/mini-storytellers-japanese-children-pass-on-horror-of-nagasaki-bombings
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【 日本はなぜ核兵器禁止条約を受け入れようとしないのか? 】( http://kobajun.biz/?p=32118 )という記事をご紹介したことがあります。
「21万人以上が殺された広島と長崎の人々にとって、日本の不参加は到底容認できるものではない」と被爆者の方々の思いが語られた後、「核兵器のない世界を実現するために努力するという安部首相の発言は虚言」であると指摘されていました。
被爆者の方で無くとも、これにはがっかりさせられます。
戦争はそれまでの社会的価値を一変させます。
本来は国土と市民の命を守ることが最優先されなければなりませんが、これまで数限りなく見てきた戦時ドキュメンタリーのどこにもそのような場面は確認できませんでした。
当事国においては戦闘能力を上げることとそれを保持することが最優先されることになります。
太平洋戦争末期、戦車兵として関東地方で米軍の上陸に備えさせられていた作家の司馬遼太郎氏は、次のような自分の体験を紹介しています。
「米軍の上陸地点周辺では大量の避難民が発生するため、現場に急行するのは困難なのではないか?どう対応すればいいのか?」
と尋ねた当時下士官だった司馬さんに、上官はこう返答したと言います。
「(避難民は)ひっ殺していけ!」
これが実際の戦争の姿だと思います。
市民を守るどころの話ではありません。
戦争が始まれば、人間の命は消耗品でしかなくなります。
ひとりひとりの人間の最大のテーマは、自分の人生をどう生きるかということのはずですが、戦争になれば問答無用で自分の命を国家に差し出さなければなりません。
しかしその国家が賢明なものだという保証はありません。
国家の頂点にいるのがヒットラーや関東軍司令部であった時代の人々は、最悪の運命に見舞われました。
70年以上平和な時代を築いてきた日本に、なぜ今になって「戦争にそなえよ」と唱える人間たちが現れてきたのか?
戦争があたかも外交手段の一つであるかのような、欺瞞に騙されてはなりません。
https://www.theguardian.com/world/2018/aug/02/mini-storytellers-japanese-children-pass-on-horror-of-nagasaki-bombings