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日本人はなぜ人類史上初の核兵器攻撃の標的にされたのか《中編》

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所要時間 約 10分

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日本の軍組織もひときわサディスティックで残忍であり、第二次世界大戦が始まる前から各地で残虐行為を行っていた

アメリカ軍の『報復』によって1945年の夏までに900万人以上の日本の市民が住む場所を失った

東京大空襲「夢が叶った…一面が火の海となり、東京は枯葉のように燃え上がった」米国メディアの論評              

                 

シェイン・クイン / グローバル・リサーチ 2019年6月18日

            

アメリカ政府が行ったこの核兵器攻撃に対し、西洋のメディアはほとんど例外なく支持を表明しました。
1945年8月上旬から1945年12月下旬まで広島・長崎への原爆投下に関して書かれた595の新聞社説のうち、200,000人以上を殺した核兵器攻撃に反対したのはわずか2%未満にとどまりました。

              

これら報道機関はまた、ドイツと日本の都市を次々と焼き払った大規模な空襲に揺るぎない支持を表明しました。
事実、彼らは工業地帯や軍事拠点に対する空爆よりも、むしろ「民間人を標的とした空襲を強く要求」したのです。

               

たとえばニューヨークのタイム誌は100,000人の一般市民を殺戮した東京大空襲について次のように称賛しました。
「夢が叶った…一面が火の海となり、日本の都市は枯葉のように燃え上がったことだろう」

            

アメリカが日本に対して核兵器を使用した本当の理由。それは戦争を終わらせることでも、連合軍兵士の命を救うことでもありませんでした。

                   

一方、日本の強硬派の軍国主義者は最後の一人になるまでの戦いを主張しましたが、さらなる核兵器攻撃の脅威にさらされた結果、日本政府は1945年8月15日に降伏を発表せざるを得なかった。
事実1945年8月10日、アメリカの原爆プロジェクトを指揮していたレスリー・グローブス将軍はマーシャル将軍に対し、別の長崎型プルトニウム原子爆弾の『目標設定』が完了し、「1945年8月24日以降」に使用可能になると通知していたのです。

              

1945年8月8日の夕刻、ソ連が日本に宣戦布告したことも大日本帝国の降伏に影響を与えました。
翌日以降、赤軍は満州国内の日本のエリート部隊である関東軍を、熱く熱したナイフでバターで切断するようにしてバラバラにしてしまいました。
もう1つの降伏要因は、1945年8月11日に第三者を介して伝えられたアメリカの保証でした。
これは当時神のような存在であった裕仁天皇が日本の降伏後、政治権力の一切を失いはするものの天皇であり続けることができるというものです。

                 

最初の原子爆弾攻撃の直後、当時の鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長であった迫水久常(さこみずひさつね)は、日本が持ちこたえられるのはせいぜい2か月間、1945年10月までだと見積もっていました。
日本にはすでに制空権も制海権もなく、原油、ゴム、鉄鉱石の輸入の道も途絶えていました。
そして日本軍はビルマ及び太平洋諸島から駆逐されていました。

                  

さらに、チェスター・ニミッツ提督(太平洋艦隊司令官)やウィリアム・リーヒー(トルーマンの参謀長)などのアメリカ軍高官の手元には、海上封鎖と絶え間ない空襲により日本は数週間以内に降伏せざるを得ない状況にあり、今さら日本本土への上陸作戦や原爆の投下は必要ないという詳細な資料がもたらされていました。

                   

1944年3月の段階でグローブス将軍が強調していたように、原子爆弾は新たに登場した長期にわたるアメリカの敵となるソビエト連邦への実物警告として広島と長崎に投下されたのです。

                  

核兵器を使わない空爆とはいえ、カーティス・ルメイ少将の下で行われた日本国内の数十の都市に対する戦術的空爆は大量殺戮の度合いを強めていきました。
ただし日本の軍組織もひときわサディスティックで残忍であり、第二次世界大戦が始まる前から各地で残虐行為を行っていたことを忘れてはなりません。

              

しかしそのことで、アメリカの軍事力の矢面に立たされたのは日本の民間人でした。
1945年5月30日、ルメイは記者会見を開き、米国の空爆が100万人以上の日本人を殺したと公の場で自慢しました。

                 

1945年の夏までに900万人以上の日本の市民が家を失い、そのほとんどが農村や山村に避難しました。
原爆投下の直前まで、アメリカ軍機によって破壊された日本の病院は969もの数に上っていました。

                

その4年前、フランクリンD.ルーズベルト大統領が述べたハワイのパールハーバーにある米海軍基地に対する日本の「挑発的で卑劣な攻撃」が行われた背景には、実際に根拠のある懸念が日本側にはありました。
1941年12月7日の真珠湾攻撃に先立つ5か月間、ワシントンはB-17重爆撃機をパールハーバーを始めとする太平洋の米軍基地、フィリピンのクラーク空軍基地とデルモンテ空軍基地に移動させていました。
1941年半ば以降、アメリカの大型の爆撃機の半数が大西洋側から太平洋側に移動していましたが、こうした状況については日本の軍参謀たちも気づいていました。

                 

                  

この太平洋方面軍の増強の背景にある理由は1940年の後半、有名な戦前の軍事構想の専門家である空軍将官のクレア・シェンノートが具体化したものでした。
彼はB-17爆撃機がどのようにして「焼い弾で大日本帝国の産業中枢を焼き尽くす」のかその方法を説明しました。
「大量のアリが群らがっている竹で作った蟻山が集中している本州と九州への攻撃」…
シェンノート将軍の計画を聞いたルーズベルト大統領は「ただただ喜んで」いました。

                   

日本が真珠湾攻に踏み切る1941年以前、日米両国はすでにアジア大陸と太平洋地域において互いに相容れない野望を持つ主要なライバル同士だったのです。
アメリカ政府は大日本帝国に宣戦布告することにためらいはなかったはずです。
真珠湾攻撃の3週間前の1941年11月15日、マーシャル将軍は記者団に対し、『オフレコのブリーフィング』で、アメリカ軍航空機が『紙で作られた日本の都市に火をつけることになるだろう』と語っていました。
「相手がたとえ民間人であろうと、我々は爆撃をためらうことはない。」

                    

(後編に続く)
https://www.globalresearch.ca/us-military-destroyed-66-japanese-cities-before-planning-wipe-out-same-number-soviet-cities/5680934

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10数年前に80代で亡くなった同じ町内に住む男性が、太平洋戦争時代のことについて話してくれたことがありました。

この男性は戦後警察官僚として定年退職を迎えましたが、太平洋戦争当時は下士官として中国にいました。

「自分が軍から命令されて中国でやったことは、一生誰にも話すつもりはない。」 

「家族にも話したことはないし、絶対に口にするつもりもない。あんなことをやったなんて他人に言えるはずがない…このまま墓まで持っていくしかないんです…」

こう語ると男性は絶句して下を向き、そのまま動かなくなりました。

何も具体的なことは話してくれませんでしたが、それだけ苛烈な体験を、そして多分忌まわしい体験を強いられたのだと思います。

その時の男性の姿は鮮明な記憶として残っています。

                       

歴史修正主義者の無恥無反省の都合の良い話ではなく、自国で食い詰めた挙句ににやってきた外国人の日本に対するおべんちゃらでもなく、日本人が再び戦争という最低最悪の選択をしないように、市井で暮らし続けているこうした日本人自身の実体験を一つでも多く記録していきましょう。

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