ホーム » エッセイ » 【 もうひとつの太平洋戦争 : 米国女性作家が見た中国軍ゲリラの抗日戦争 】
日本軍が民間人に対しどういう仕打ちをするか知っていた中国人は、井戸に毒を流して皆逃げ去った
同じ日本兵が中国人に対して行なっていた残虐行為を、強く嫌悪していた日本人兵士
ガーディアン 1月14日
1938年1月14日、アグネス・スメドレーは中国大陸内部での抗日戦争において、兵士が直面する恐ろしい困難について証言しました。
1938年1月13日、アメリカの女流作家であるアグネス・スメドレーは漢口に到着するやいなや、中国の抗日ゲリラ戦の状況について、臨場感あふれる報告を開始しました。
彼女は山西省にあった中国共産党指揮下の八路軍の本部で3ヵ月を過ごしました。
彼女は日本軍の支配に対抗するため、克服不可能と思われる数々の困難があるにもかかわらず、山西省の中国人の団結は固いと報告しました。
何千人もの中国人兵士が雪道をはだしで行軍し、凍結しかかっている川を首までつかって渡河していると報告しました。
彼女は夜間作戦中に負った凍傷のため何人もの兵士が手足を失ったこと、そして現地では医薬品が決定的に不足していることに連合国側が関心を向けなければならないと伝えました。
「日本軍が民間人に対しどういう仕打ちを行うか、身に染みて知っていることから…」
スメドレーは次のように続けました。
「人々は日本兵の接近を知らされると、我先に暮らしていた村から避難しました。その際には貯えていた食料をすべて持ち去り、井戸には毒を流していきました。
日本軍が村を占領してしまうと、中国人たちはその襲撃に備え一晩中屋外に出て見張りを続けていました。
ほとんどすべての中国人青年は八路軍のゲリラ部隊に参加するか、あるいは八路軍正規軍の貨物輸送などの兵站業務に加わりました。」
▽ 女性に率いられた鉱山労働者達の戦い
スメドレーは、日本軍が接近してきた際、炭鉱の労働者たち200人が中国政府の武器庫を叩き壊し、中から武器を取り出して日本軍と戦いながら退路を確保し、女子供を含む家族全員を無事田園地帯に避難させる場面に遭遇しました。
その後彼らは忽然とある谷間に現れ、日本の第20師団と戦闘中の中国の正規軍に加わり、勝利しました。
この戦いで日本側は1000名の兵士が死亡、500人の中国人捕虜が解放されました。
「しかしあらゆる事実の中で最も意外だったのは…」
女性作家はこう続けました。
「鉱山労働者の戦闘を指揮していたのは61歳の女性であったことでした。彼女はみんなから親愛の情をこめて『愛国者の母』と呼ばれていました。
彼女はそれぞれ違う立場で抗日戦争を戦っている2人の息子を誇りにしていました。
1人は中国の正規軍で、もう一人はゲリラとして戦っていました。
ほとんどの戦闘期間を通じてかれらの食事はきわめて貧しいものでした。
常食していたのはカブを煮たもので、時に日本軍の兵士から奪った食料が加わりました。
一日の割り当ては水浸しになったひと包みの食糧だけでした。
「女性作家のティン・リンを含む少人数の一団が八路軍と行動を共にしていて、コンサートを行いました。彼女たちは毎晩野営地でその日のニュースを歌詞にして、メロディーをつけて歌いました。
歌われたのはすべての前線における状況で、バラード調のメロディーが付けられていました。」
残忍な行為が常態化していた日本軍
日本の軍隊について議論した時、スメドレーは日本兵の中にも良い人間はいるのだと語りました。
これらの人々は同じ日本兵が行なっている残虐行為を強く嫌悪していました。
「私が話しをした多くの日本人捕虜は、心身ともに疲れ切ってしまったと語りました。彼らは徴兵されてこの地に連れてこられ、戦うことを強制されたのです。中国人に同情などすれば、直ちに自分自身の命も補償されなくなるような立場に置かれていました。」
日本軍の兵士の出身は3つの集団に分けることができるように見受けられました。
ひとつはきわめて若い人たちともうひとつは44歳までの比較的年齢の高い人々、そしてもうひとつが人生の盛りにあって日本で充実した生活を送っていたにもかかわらず、権力によってそこから引きはがされ、この地に送られてきた人々です。
一方の中国軍には韓国人や台湾人も加わっていましたが、ロシア人はいませんでした。
アグネス・スメドレーは、この報告に続き1941年までマンチェスター・ガーディアンの戦争記者として中国に留まり、本国に至急電を送り続けました。
[最後の写真、一番左がアグネス・スメドレー、隣はバーナード・ショー、右端は魯迅]
http://www.theguardian.com/media/2016/jan/14/china-japan-war-1938-agnes-smedley-archive