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星の金貨 東日本大震災や音楽、語学、ゴルフについて語るブログです。

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【 津波の下に消えてしまったこどもたち : 3.11の想像を絶する悲劇の真相 】《2》

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所要時間 約 9分

確実に安全な避難場所の目の前で、なぜ大勢の子供達が命を失ってしまったのか…

「津波が来ます!子供たちを早く丘の上に避難させてください!」「まあまあ、落ち着いてください、お母さん……」

 

リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日

 

地震発生当初の大川小学校の子どもたちは、当初模範的と言えるスピードで避難をしました。

机の下身を隠してからわずか5分後、子供たちはそれぞれ自分のロッカーに保管されていた硬いヘルメットを着用し、クラスごとに校庭に整列しました。

その後石巻市当局は、生存している証人へのインタビューと目撃談に基づき、その日の午後起きたことを分ごとに記録した資料を作成しました。

その記録は大地震の後の興奮とあきらめ、光明を見つけ出そうとする思いと恐怖という地震直後の心理状態を映し出しています。

 

子供:みんなが座って、点呼が行なわれました。

低学年の女の子たちが泣いていましたが、城田さんと紺野さんがその子たちの頭を撫でて「大丈夫よ。」と言っていました。

ひとりの6年生の少年が「自宅のゲーム機は大丈夫だろうか?」

と心配そうに話していました。

 

子供:地震ショック症候群の一種かもしれない。吐き気がこみ上げてきた子は他にはあまりいないから。

 

子供:友達がこう言いました。「ほんとうに津波が来るのだろうか?」

繰り返し余震が襲ったことで、幼い子供たちの警戒心はいやが上にも大きくなっていきました。

午後2時49分、東日本から東北地方にかけて本震によって引き起こされた余震が繰り返される中、気象庁は6メートルの津波が押し寄せる可能性があると警告を発しました。

特に東北地方沿岸の住民は、全員が高地に避難すべきだと告げたのです。

午後3時03分、午後3時06分、午後3時12分、立て続けに大きな余震がありました。

午後3時54分、気象庁はさらに警告を発し、津波の高さが10メートルに達する恐れがあると発表しました。

 

校庭にいた教師たちは桜の木の下に集まり、小声で議論を始めました。
他の多くの日本の教育機関同様、大川小学校もマニュアルによって運営と管理が行なわれていました。

学習指導要領と呼ばれる日本の教育計画は、倫理原則から卒業式の式次第にまで言及しています。

その中では、火災、洪水、伝染性疾患の流行などの緊急事態への対応について、1章が割かれています。

学習指導要領は国が定めたものであり、学校はそれぞれ置かれている環境によってそれを手直しし、運用しています。

海岸線に近い場所にある小中学校では大きな地震が発生した直後、教師と生徒たちは急こう配の道や階段を登ってできるだけ高い場所に避難するよう指示していました。

しかし大川小学校では学習指導要領の中身を学校の実情に合わせて改訂することを担当していたはずの石坂教頭が、基本マニュアルの表現その他をそのままにして運用していました。
その時校庭に立っていた石坂教頭本人は、こうした漠然とした表現を目の前の現実に当てはめようとしていたのです。

「一次避難場所:学校の敷地…津波の場合の二次避難場所は学校近くの空き地、公園、その他…」

しかしこんな曖昧な表現は現実の役には立ちませんでした。

「公園など」という表現がありましたが、田園地帯である大川小学校の周りには畑や丘があるばかりで公園などは見当たらず、こうした場所ではほとんど意味をなしませんでした。

そして「空き地」については、周囲のいたるところにありましたが、問題は避難すべき場所をどうやって選ぶのかという事だったのです。

 

現実には明らかに安全な場所がありました。

大川学校は一番高いところで標高が220メートルの森におおわれた丘のすぐ前にあったのです。

数年前まで子どもたちは理科の授業の一環として、シイタケの栽培を行うためにこの丘に実際に登っていたのです。

この丘は最年少の子供たちですら簡単に上り下りできるような勾配しかなく、5分もあれば一番高い場所に行く着くことが可能だったのです。

海抜をはるかに超える津波が襲ってきても、5分あれば大川小学校の子どもたちは全員がその影響が及ばない安全な場所まで避難することが可能だったはずでした。

年配の教師のひとり、遠藤淳二先生は逃げ遅れた生徒がいないかどうかチェックをした後で、石坂教頭と交わした短い会話を覚えていました。

「私たちがすべきことは何ですか?急いで丘の上に避難すべきじゃないですか?」

しかし私はこう告げられたのです。

「余震が続くうちはそんなことは不可能だ。」

しかし生き残ることができた6年生の女子の1人は、もっと劇的な場面を記憶していました。

遠藤淳二先生は学校から飛び出すと大声でこう叫びました。

「丘、丘の上!丘の上に走って逃げろ!」

 

遠藤先生の警告に従おうとしたのは6年生の男子生徒、紺野大介くんと友人の佐藤裕樹くんです。彼らは担任の佐々木隆志先生にこう訴えました。

「先生、丘の上に逃げましょう。

 

遠藤先生が発した警告にすぐに反応した生徒たちがいました。

6年生の今野大輔くんと友人の佐藤優樹くんです。

二人も自分たちの担任の佐々木隆先生にこう訴えました。

「丘の上に避難すべきです。このままここにとどまっていたら、地割れが起きてそこにのみ込まれてしまうかもしれません。ここにいたら死んでしまいます!」

少年たちは丘の上の椎茸の栽培場に向かって駆け出しました。

しかし遠藤先生の提案は却下され、避難しようとした生徒たちもクラスのみんながいる場所に戻るよう命じられました。

 

このとき2つの異なるグループの人々が学校に集まり始めていました。
最初は両親や祖父母で、子供たちを迎えに車と徒歩でやってきました。
2番目は地元集落の人々でした。
大川小学校は近隣の釜谷地区の住民の指定避難場所だったのです。
このことが事態の展開を一層複雑なものにしてしまいました。

 

そして2つグループの間には明らかな意見の違いがあり、時に表立って意見がぶつかり合うこともありました。

教育委員会がまとめた記録には、この時の心情が綴られていますが、両親は、子供たちをできるだけ早く避難させたいと考えていました。

子供:私のお母さんが私を迎えに来てくれました。
私は佐々木先生に親と一緒家に帰りますと告げました。
でも私たちは、「今家に帰るのは危険だから、学校にいるほうがいい」と言われました。

親:私は佐々木先生に、
「ラジオでは10メートルの津波が来ると警報渓谷しています。」と言いました。
そして丘の上を指差してこう言いました。
「丘の上に避難してください!」
しかし私は、こう言われたのです。
「まあまあ、落ち着いてください、お母さん。」

この時地元の住民たちは、多くが大川小学校にとどまることを望んでいました。
学校にやってきたのはほとんどが専業主婦の母親たちでした。
そして留まり続けるよう主張していたのはほとんどが退職者、高齢者、男性でした。

それは何世紀も前に津波が襲ってきた時に記録されていた、人々の行動の再現であったかもしれません。
早く対応するよう訴えかける女性たちの声と、年老いたものたちの傲岸とも見える否定的な態度のぶつかり合いでした。

 

-《3》に続く –

https://www.theguardian.com/world/2017/aug/24/the-school-beneath-the-wave-the-unimaginable-tragedy-of-japans-tsunami

【 津波の下に消えてしまったこどもたち : 3.11の想像を絶する悲劇の真相 】《1》

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所要時間 約 9分

欧米メディアに大きく取り上げられているドキュメンタリー、その著者自らが綴る3.11の最大の悲劇

眼前に広がる無数の死や無惨な様子、そのとき受けた衝撃、心と体は……

 

リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日

 

2011年、東北地方の太平洋岸を津波が襲いました。

この津波では18,000人以上が犠牲になりました。

災害発生からすでに6年が経過しましたが、たった数秒間で運命を暗転させてしまった取り返しのつかない当時の決断により、未だに苦しみ続けている地域があります。

 

リチャード・ロイド・パリー/ロング・リード/ ガーディアン 24 August 2017

 

2011年3月11日金曜日に日本の東北太平洋岸を襲った地震は、世界の地震学の歴史上4番目に強力なものでした。

この地震は地軸を6インチ(15センチメートル)傾けるほど強力なものでした。

そして日本をアメリカに4メートル近づけました。

この地震によって発生した津波によって18,000人以上が死亡しました。

津波の高さは最大で40メートルに達しました。

 

50万の人びとが住む家を失いました。

そして福島第一発電所の3基の原子炉が崩壊して周囲の国土に放射能を撒き散らし、チェルノブイリ以来の世界最悪の原子力事故が引き起こされました。

地震と津波は2億1,100万ドル以上(約2兆3,000億円)の被害をもたらし、これまでで最も費用が高額な自然災害となっています。

苦痛と不安は様々な側面で計り知れない程、そして急激に膨れ上がりました。

それは直接的な被害を受けなかった人々ですら同様であったのです。

突然自分たちが育てた農産物を売ることができなくなった農民たちは、途方に暮れるしかありませんでした。

福島第一原発の事故に直接責任が無い電力会社の労働者は、自分たちが非難と差別の対象となってしまっていることに気づかされました。

眼には見えない放射能汚染への恐怖が人々の中で一般化され、空気を介し、そして多分水をも介して拡大し、母親たちの母乳すら汚染が疑われる事態となったのです。

 

戦場や被災地で働く人々はしばらくすると、現実を自分の頭の中から追い出すコツをつかみます。

これは職業上必要なことです。

医師、救助隊員あるいは報道関係者が、眼前に広がる死や無惨なありさますべてに衝撃を受けていたのでは心も体ももつはずがなく、仕事を続けることは不可能になってしまいます。

私自身、海外特派員や戦場特派員として働く中で、いちいちの悲劇を個人として受け止めることなく思いやりを持って対応するという技術を身に着けました。

私は実際に何が起きたのかその事実を把握しており、それがどれだけぞっとするでき事なのかも理解していました。

しかし心の奥底では、ぞっとしてはいませんでした。

「一瞬にして、私たちは想像でしかなかったはずのものが現実に目の前に展開されていることを理解しました。」

ジャーナリストのフィリップ・グレビッチ(Philip Gourevitch)がこのように書き残しました。

「こうした立場に立てるという事が私を最も魅了していることなのです。何が本当であるかを私自身が考えて答えを出す必要があります。」

 

一口に災害と言ってもその構成要因であるひとつひとつのできごとはまったく異なり、それぞれが持つ意味合いもまた違っており、私自身揺るぎない真実を書き綴っているという確信などはみじんも感じていませんでした。

取材を続けていた数週間、私が感じていたのは疑問、同情、そして悲しみでした。

しかしほとんどの時間、私は通常の感覚を失ったまま孤立したように感じ、何か重要なポイントを見失っているような厄介な感覚に苛まれていました。

そして他とは比較にならない程の悲劇に見舞われた小さなコミュニティに関する情報を得たのはずいぶん後になってからのことで、津波による被害が発生した年の夏のことでした。

その地の名前は大川、丘の下の田んぼに囲まれた、日本各地にある普段は目立たないような場所にありました。

被災地での取材は数年間に及びましたが、その間私はこの地を何度も訪れることになったのです。

そして徐々に大川小学校のイメージが私の中に徐々に出来上がっていったのです。

 

大川小学校がある場所は首都の東京から300キロ以上北にあり、日本有数の大河である北上川が太平洋に注ぎ込む場所から3キロほど内陸の地点の釜屋という集落です。

その場所がある東北地方は寒く酷烈な気候と、かつては野蛮人や鬼たちが独自の王国を築いていた場所として有名でした。

今日でさえ都会の住人から見れば、その場所は辺鄙で人口も少なく、何となく憂鬱な典型的農村というイメージの域を出ません

 

大川小学生に通っていた生徒の一人、只野哲也くんは髪の毛を五分刈りにした、優しい快活な雰囲気を持った11歳の男の子でした。

毎朝、彼は9歳になった妹のみなさんと一緒に川沿いの道を20分歩いて学校に通っていました。

東日本大震災当日は、母親の40歳の誕生日でした。

その日の夜は自宅でささやかなお祝いをする予定でしたが、それ以外はふだんと変わらない金曜日の午後になるはずでした。

昼休みには、子供たちは校舎に囲まれた校庭で一輪車に乗って遊んだり、四葉のクローバーを探したり思い思いに遊んでいました。

しかし川の方からは刺すような冷たい風が吹いてきており、哲也くんとその友達は両手をポケットに入れ、風に背中を向けて一列に並んで寒さをしのいでいました。

 

その日大川小学校の授業は午後2時半に終了しました。

午後2時45分、スクールバスはエンジンをかけたまま出発を待っていました。

数人の低学年の子供たちはすでにバスの中にいましたが、ほとんどの子供たちはまだ教室にいて、今週の最後の授業を終えようとしているところでした。

その 1分後、6年生のクラスの子どもたちは、この日誕生日をむかえたまんのという同級生の女の子ためにハッピーバースデー歌っていました。

地震が襲ったのは歌が真中に差し掛かった時でした。

 

当時6年生だった男の子の佐藤壮真くんは、はじめ教室が非常にゆっくりと左右に揺れていたと語りました。

「小さい揺れではありませんでした。巨大でした。先生たちは『机につかまりなさい』と言っていました。」

図書室に具合が悪くなって保健室で休んでいた息子を迎えにきた男性、鈴木真一さんがいました。

鈴木さんは魚を飼育している水槽内の水が大きく波打つのを目撃しました。

5年生の哲也くんのクラスでは帰宅の準備が始まっていました

「地震が襲ってきたとき、ぼくたちは全員机の下に身を隠しました。」

「揺れが強くなるにつれて、みんな口々に『うわあ! これは大きいぞ! みんな大丈夫か?」

強い揺れが止んだ時、すぐに先生が「私の後についてみんな外に出なさい!」

と言ったので、私たちは全員ヘルメットをかぶって外に飛び出しました。

 

-《2》に続く –

https://www.theguardian.com/world/2017/aug/24/the-school-beneath-the-wave-the-unimaginable-tragedy-of-japans-tsunami

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この稿は今年8月30日に刊行され、エコノミストやガーディアンの書評で大きく取り上げられている『ツナミ・オブ・ザ・ゴースト』の著者であるリチャード・ロイド・パリー氏の自身の手になるものです。

 

『ゴースト・オブ・ツナミ : 3.11の被災地の生と死』R.L.パリー著《後篇》

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所要時間 約 6分

責任を曖昧にしたまま事なかれ主義に終始する日本の役人根性を鋭く告発したドキュメンタリー

上からの指示がないと何も決めようとしない大人たちが、たくさんの子供たちを死に追いやった

 

エコノミスト 2017年8月17日

 

この著作のクライマックスを形作ることになる大川小学校についてまず確認しなければならないのは、最初に襲った巨大な地震そのものによって死亡、あるいは負傷したこどもたちや教師は一人もいなかったという事実です。

そして後に明らかになったのは、津波警報に対する優柔不断な対応が致命的結果に結びついたという事でした。

 

この日の午後、大川小学校の橋田校長は執務中ではありませんでした。

そして同校長は震災後も約1週間に及び所在不明の状態が続き、その間生存者、そして遺体の捜索、両親の精神的苦痛に対する対応などに一切関わることが無かったという事実が、その後何もかもが誤った方向に向かってしまったことを象徴することになったのです。

 

大川小学校の石坂教頭を含めた数名の教師が子どもたちを避難させないという決定を下しました。

そして子供たちを救うべく学校に駆け付けた両親たちに、子どもたちの安全は確保されていると告げ、近くに駐車していたスクールバス – もしそれを使っていれば全員の命を救うことができたはず- の存在も無視しました。

その代り教頭と子供たちの安全に責任を持っていた他の大人たちは、緊急マニュアルの「学校近くの空き地、公園など」の意味について検討しました。

しかし近くにはこれらの言葉に一致する場所は無いと判断し、結局何もしなかったのです。

津波に襲われた瞬間、子どもたちは慌てて目の前の丘に駆け上がろうとしましたがもう手遅れでした。

 

「日本列島が存在するようになって以来、繰りかえし日本人の命が津波に奪われてきました。」

ロイド・パリーはこう語ります。

2011年に発生した災害によって他とは異なる現実が生み出されました。

数年後、大川小学校の生存者と義医者の遺族が、日本の学校当局の対応に対し訴訟を起こしました。

 

大川小学校の事件は今や有名になりました。

74人の子供たちが死亡した際、一緒にいた多くの教師も溺死しました。

大切な子どもたちが犠牲になり悲惨な境遇に落とされた家族の多くが、その死は完全に避けることができたはずであり、それをしなかった学校側の対応は事実上犯罪に等しいものだと確信するようになったのです。

5年後、仙台地方裁判所は亡くなった子供たちの家族の「法的に決定的な勝利」を認め、学校側に「明白な責任の所在」があるとする遺族側の主張を認めました。

こうして訴訟に加わった原告は、失われた子供1人につきそれぞれ約6,000万円の賠償金を受け取ることになったのです。

 

責任を曖昧にしたまま事なかれ主義に終始する日本の役人根性をロイド・パリー氏が克明に描写するは、今回が初めてではありません。

2011年に刊行された前作「闇に巣食う人々」の中で、パリー氏は殺害された英国人の若い女性、ルーシー・ブラックマン殺人事件を扱いました。

大川小学校、ルーシー・ブラックマン殺人事件、そのいずれにおいても日本の当局者は、不正行為について責任を問われると厚顔無恥とも言うべき責任の否定を行い、彼らにとって迷惑な質問がいずれ消えてなくなることを期待し、証拠の存在を無視し、時にはそれを隠滅するという行為を行ってきました。

しかしパリー氏はこうした役人たちが逃げおおせることを許しませんでした。

津波の後に実際に起きたことを、第三者が理解しやすいようにパノラマ的に配置した上で詳細な記述を行うことによって、これまでの報道などでは、実に多くの場合表に出て来にくかった理不尽な死に対する嘆きや悲しみに光をあてることに成功しました。

これはすべての社会に対する教訓です。

何か不都合な事実が明らかになると、まずは調査を妨害し事実を隠ぺいするという反応が採られることが多いのだということを警告しています。

 

パリー氏の著作を熟読した後は、今年はもう別のノンフィクション作品を読む必要はなくなるかもしれません。

 

〈 完 〉

https://www.economist.com/news/books-and-arts/21726676-how-authorities-reacted-face-disaster-says-lot-about-japan-remarkable

『ゴースト・オブ・ツナミ : 3.11の被災地の生と死』R.L.パリー著《前篇》

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所要時間 約 6分

日本に着任以来、2011年まで17,257回発生した地震のほとんどを経験した英国特派員が綴った実録

まさに上からの指示に従わなければならなかった子供たち、その大量死の直接の責任は誰にあったのか

 

エコノミスト 2017年8月17日

2011年3月11日午後2時46分、東京の北東約300kmにある仙台市沖合の太平洋の海底から約30kmを震源とするマグニチュード9.0の地震が発生しました。

日本を襲った史上最も強力な地震であり、科学者たちはその後、西暦869年に発生した貞観地震同じ沈み込み地帯での動きによるものであり、さらには1896年と1933年に発生した巨大地震とも関連するものだと判断しました。

 

そして『東日本大震災』の命名が成された巨大地震は、1千年以上前と同じ巨大津波を発生されることになりました。

2011年に発生した津波は最大で高さが40メートルに達しましたが、869年当時は津波の高さを記録する装置などはなく、被害を受けた村の人びとは津波が内陸のどの場所にまで到達したのか目印になる石を設置するなどし、何世紀にも渡り伝えようとしてきました。

繰り返し起きる巨大地震の日本の歴史は日本の人びとに、発生の際の対処方法について念入りに検討し、備えを怠らないようにするという教訓を与えました。

日本の学校で日常的に行われている地震や津波の際の避難訓練は、著しく効果的であることが証明されています。

2011年に発生した東日本大震災の犠牲者18,500人のうち、学童年齢の子どもたちの犠牲は351人に留まりました。

 

しかし一か所で著しく多くの子どもたちの命が失われてしまった学校がありました。

それが宮城県石巻市の大川小学校です。

『ゴースト・オブ・ツナミ』とはこの日、津波到来の警報がすでに出されていたにもかかわらず、なぜ自分たちではまだ状況判断が出来ない子供たちが丘陵地帯の手前に留め置かれ、このうち多数の子どもたちの命が失われてしまった出来事について、いったい誰が直接の責任を負わなければならないのか、そして子供たちの死という残酷な事実を突きつけられた家族、特にその両親は自分たちが子供たちを守ることができなかったという現実にどう対処したのかというドキュメンタリーです。

2011年まで英国タイムズ紙のアジア特派員を勤めたロイド・パリーは1995年に東京に着任して以来、2011年までに17,257回発生した地震のほとんどを経験しました。
そして2011年に発生した東日本大震災の発生から数週間、彼は津波によって原子炉がメルトダウンした福島第一原発、そしてその先に広がる津波の被災地に何度も出かけました。

彼は何度も東北地方に足を運び地元の公務員、仏教の僧侶、そして最も重要な人々になった大川小学校に子供を通わせていた家族に話を聞きました。

 

鋭い観察眼を持つロイド・パリー氏ですが、そんな彼をもってしても理解に苦しむようなエピソードを数多く耳にしました。

悲嘆にくれた1人の母親は娘の遺体を抱き抱え、死んだ子供の目を覆っていた泥を舐めながらきれいにしていました。

別の母親は未だに娘の遺体が泥の中に埋もれたまま発見されないため、自分自身で辺り一帯を掘り起こして捜索ができるように掘削機を操作するためのライセンスを取得しました。

ロイド・パリー氏は津波から生き残るという運命の分かれ道が、実情に即した適切な避難命令が与えられたかどうか、そしてどう対応したのかに大きく依存していたという事実を学びました。

被害は高齢者に集中しました。

ロイド・パリー氏は104歳で死亡した下川隆史さんに関する話を記録しました。

下川さんは周囲からも愛されていた人であり、2008年にやり投げの競技の100歳以上の部門で世界チャンピオンに輝いた際、この時偶然パリー氏も直接インタビューをしていました。

高齢者の次に犠牲が多かった人々は、津波警報の深刻さを理解していなかった人々、そして避難の前にいったん自宅に戻って大切なものを回収しようとした人々でした。

 

アメリカ出身の若い教師は、はぐれてしまった生徒を両親のもとに連れて行った後、今度は母国にいる両親に自分が無事だという事を電話で伝えるため自宅のアパートに戻ろうとして津波に巻き込まれました。

対照的に市町村が発した警報を聞き逃すまいと注意していた人々は、生き残るための確実なチャンスを手にしました。

最初の警報のサイレンが鳴らされたのは津波到達の約45分前、従って安全な場所に到着するのに十分な時間があったはずでした。

なのになぜ、何が、大川小学校で起きていたのでしょうか?

 

〈 後篇に続く 〉

https://www.economist.com/news/books-and-arts/21726676-how-authorities-reacted-face-disaster-says-lot-about-japan-remarkable

 

【『3.11の被災地をさまよう死者たちの霊と忍び寄る前時代の亡霊』リチャード・ロイド・パリー著 】《後篇》

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所要時間 約 7分

悪政は自然災害ではない、黙って耐え忍んでいるだけでは社会正義は実現しない

政治権力に意見を持とうとしない大勢順応主義は、社会にも自分にも致命的な運命をもたらす

民主主義の実現のため積極的に活動する市民の形成を阻害する、『上からの命令に忠実』な姿勢

 

堀田えり / ガーディアン  2017年8月16日

 

ロイド・パリーの著作の中には被災地での生活の別の側面を伝える部分があります。

村の集落から市や町の地方自治体、都道府県、そしてそれらすべてに対し機能すべき国政レベルに至るまで、あらゆる社会の政治的失敗の幻影が災害後の社会の再建のため機能できていない、という事実です。

そうした事実を最も端的に証明しているのが大川小学校の悲劇です。

ここで起きた悲劇はこの著作のクライマックスのひとつにもなっており、緻密に組み上げられた犯罪小説や心理ドラマよりも、読む者の心に迫ってくる力を持っています。

 

この悲劇だけに特に焦点を当てることがなくとも、バリー氏の著作は読む者を惹きつける力を持っています。

しかし東日本大震災の津波の直接被害を受けた9つの学校の内のひとつで、在校中に命を落とした児童が東日本大震災では75名いましたが、そのうちの74名は大川小学校の犠牲者です。

犠牲になった子供たちの両親は、なぜ大川小学校に限ってこれだけ多くの犠牲者を出していまったのか、その本当の原因、理不尽さといったものを明らかにしたかったのです。

後からの検証によって、警報の発令から津波の到達までには、他の学校の子供たちが高所に避難した事実が承継するように十分な時間がありました。

しかし行政側の見解は変わらず、徹底的な調査を開始するのは難しい状況でした。

 

悲しみに打ちひしがれると同時に怒りに身を震わせた大川小学校の犠牲者の両親は戦うことを決意しました。彼らは、石巻市と宮城県に対して訴訟を起こしたのです。

大川小学校の犠牲者の両親たちは、同時に19世紀以降日本が急速に近代化を進める際に威力を発揮した強力な官僚主義、有司専制の下での中央集権国家としての古い体質とも戦うことになったのです。
この体質、あるいはイデオロギーは国民を国家の下僕とみなします。

 

従って国家や自治体など『お上』の方針に異議を唱えたりすれば、良くて厄介者扱い、悪いければ社会から葬り去るべき自己中心的なトラブルメーカーだという烙印を押されてしまいます。

第二次世界大戦(太平洋戦争)では日本社会の様々な制度やシステムが破壊されましたが、そもそも戦争を引き起こしたのがこうした考え方であったにもかかわらず、そのまま戦後社会にも引き継がれることになってしまいました。

 

ロイド・パリーは次のように記述しました。

このような価値観が支配する社会では、悪政すら「自然災害」と同じ、「普通の人間がいくら努力しても避けられない、人間の手ではどうしようもない災難」だと受け取られてしまう。

そして人々は「無力感にさいなまれつつ結局は明け入れざるを得ず、耐えるしかなくなる」と。

 

政治権力の在り方について個人では判断をしようとしない人々の態度は、やがて大勢順応主義へとつながり、致命的な運命に遭遇することになります。

ある初老の一家族は津波襲来の警報を受けいったんは高台に車で避難しましたが、律儀にもわざわざ丘を下りて他の人びとと同様に指定避難所に入り、そこで津波に襲われ一家全員が死亡しました。

東北地方の被災者の『模範的態度』を引き出したのと同じ特性、すなわち上からの命令には忠実であり、体制の非合理性にはかなりの程度まで寛容である一方、反体制的な騒ぎに対しては嫌悪感を持つという性向は民主主義社会の実現のために積極的に活動する市民の形成を阻害する可能性があると主張しているのかもしれません。

 

しかし障害の存在は、個人の人権確立の戦いのための起爆剤にもなりえます。

今日ほとんど顧みられる事はありませんが、東北地方には民主主義の実現のため苦難を強いられた歴史があります。

明治維新直後の1870年代と80年代、日本の新興市民社会にはどのような憲法がふさわしいかの検討が始まりました。

1860年代の戊辰戦争で北の果ての地方特有の貧困、無力感、血まみれの敗北を経験した東北の思想家たちは、草の根の議論を巻き起こしました。

女性天皇が帝位に就くことの可否、報道の自由、そして東北地方のような『僻地』が他の日本社会の中でどのような位置を忌めるべきか、議論されたことの多くは今日でも充分に議題になり得るものばかりです。

このような東北の民主化運動のなかで、当時起草された憲法が今日注目されています。

これは1881年に宮城県の千葉卓三郎が考案した憲法草案「日本帝国憲法」、通称『五日市憲法』と呼ばれるものです。

この草案は人権に関わる項目に条文の半分以上が割かれており、実際に制定公布された大日本帝国憲法と比べて著しく人権に重きを置いたものになっています。

千葉卓三郎自身は31歳で死亡し、この憲法草案は90年後の今日再び脚光を浴びるまで誰にも顧みられることはありませんでした。

今日の東北地方や日本という国が本当の意味で前に進に進むために必要なのは、千葉卓三郎のような改革者なのです。

 

https://www.theguardian.com/books/2017/aug/16/ghosts-of-tsunami-japan-disaster-richard-lloyd-parry-review

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【星の金貨プロジェクト】を始めたのは、東日本大震災・福島第一原子力発電所事故後の被災地の本当の姿を、日本の政治権力の意向を『そんたく』しない海外メディアの目を通してできるだけ多くの人々に伝えたい、と思ったのがきっかけでした。

その意味でこの記事は非常に重要な価値があり、それ以上にこの後篇の後半部分は、日本の民主主義にとってとても大切なメッセージを含んでいると思います。

このサイトについて
ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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