星の金貨 new

星の金貨 東日本大震災や音楽、語学、ゴルフについて語るブログです。

ホーム

荒れ果てた故郷、目に見えない恐怖:2011年東日本大震災・福島第一原子力発電所の崩壊《後編》

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

所要時間 約 9分

広告
広告

                    

崩壊によってむき出しになった原子炉が、致命的な量のヨウ素-131、セシウム-134、セシウム-137を大気中に噴きあげた

避難した先で『放射線の運び屋』呼ばわりされ、嘲られた原発難民

                      

                   

スティーヴ・チャオ / アルジャジーラ 2021年3月10日

                

破壊はそこで終わりませんでした。
地震と津波により何もかも破壊された後、今度は目に見えない恐怖を伴う徹底的な破壊が襲ってきたのです。

                   

東北太平洋岸で徹底的な破壊を行った津波は、福島第一原子力発電所において原子炉を損傷させ、1986年のチェルノブイリ原発事故に次ぐ前例のない3基の原子炉のメルトダウンという世界最悪の原子力災害の1つを発生させたのです。

                   

▽ 放射能汚染と混乱

                     

福島第一原子力発電所の崩壊により、急いで避難する人びとの車列

                     

放射能による汚染によって大きな混乱とパニックが引き起こされた事を、私は記憶しています。

                   

崩壊によってむき出しになった原子炉から大気中に噴きあげられたのは、致命的な量のヨウ素-131、セシウム-134、そしてセシウム-137でした。

                     

日本政府は当初、住民に屋内に避難するように告げましたが、福島第一原発の周囲20キロメートルに立入禁止区域を設置することを発表しました。
その範囲は30キロメートル、さらに80キロメートルと瞬く間に拡大していきました。

                   

そして約160,000人の住民に対し、通知からわずか数時間のうちに荷造りを済ませて自宅を放棄して避難するよう勧告が行われたのです。
その際、再び自宅に戻る事ができるかどうかについては何も知らされませんでした。

                    

                    

大規模な避難が行なわれてから数週間、避難先の市町村でまるで厄介者扱いを受けた経験がある、アルジャジーラの取材に避難民となった家族の多くがそう語りました。

                   

避難民の複数の家族が子供たちが転校先の学校でいじめに遭い、『放射線の運び屋』呼ばわりされ嘲られた経験を持っていました。

                  

そして10年が過ぎた今、人びとの中の恐怖は目に見えにくくなりました。
差別についても同様です。

                          

日本政府と関係当局は福島県内の放射能汚染地域の除染に何千億円もの費用をつぎ込んできました。
人が住む事ができない帰還困難区域は約307平方キロメートルに縮小しました。
10万人以上の住民が帰還を果たしました。

                       

「福島第一原子力発電所の崩壊が始まった当時、これ程の悲劇、その規模の大きさを忘れることなど考えられませんでした。」
とアルジャジーラの朝倉ディレクターがこう語りました。
彼女は2011年以降、取材スタッフを率いて被災地を何十回も訪れてきました。
「その記憶は一面に広がるとても広大なものであり、今なお私たちの心のから消える事はありません。しかし今では、多くの日本人にとってその記憶は遠いものになっています。今私たちが一番懸念しているのは新型コロナウイルスの方です。」

                       

                   

東京電力は崩壊した福島第一原発の事故収束・廃炉作業と放射性核廃棄物の安全な処分を行わなければなりませんが、その現状に関する報道はほとんどが新聞の中面の目立たない場所に小さく掲載されているだけです。

                   

しかし、福島の問題ははまだ何も終わっていません。

                   

3基の原子炉がメルトダウンしたことによって引き起こされた放射能汚染の脅威は残されたままです。

      

▽ 犠牲者を追悼する

                    

昨年、東京電力と日本政府は放射能汚染水125万トン以上(オリンピックサイズのプール約500個分の水量に相当)を太平洋に放出したいと発表しました。
理由は福島第一原発の敷地内にこれ以上保管場所を確保できなくなったことが理由です。

                     

これに対し様々な環境保護団体に加え、国連もこの決定を批判しました。

                      

                   

福島から放出された放射能はすでに広範囲にわたる漁業資源の汚染を引き起こしており、カリフォルニア沖で漁獲されたマグロからも検出されています。

                      

日本政府の発表を聞いて、私は田所忠義さんのことを思い浮かべました。
福島第一原発の原子炉がメルトダウンしてから数ヶ月後、私は彼が操船する漁船に乗っていました。
日本政府当局は福島県沖のすべての漁獲を禁止していたために、田所さんと船の乗組員たちは魚種ごとの放射性セシウムについてテストする見返りに、政府から少額の金銭的補償を受けていました。

                        

福島第一原発を正面に見ながら流し釣りをしながら原子力発電所の反対側をトローリングしていた際、誇り高き漁師の一団から尊敬されていた田所さんは、彼の家族と彼自身が経験している経済的困難について語りました。
田所さんは福島の海で生計を立てる漁師の家系が自分の代で終わってしまう事を心配していました。

                   

数年後、日本政府は福島県沖で漁獲された魚を再び市場で販売することを許可しました。
しかし計画されている放射能汚染水の放出が現実になれば、田所さんを初めとする漁業関係者は福島県沖での漁獲を再び諦めざるを得ない状況に追い込まれるでしょう。

                   

                  

日本政府は10周年を機に、東日本大震災の犠牲者を追悼する政府主催の公式の式典を終了させると述べています。

                     

先に進むことの大切さを認めながらも、東北地方太平洋岸のコミュニティは忘れられてしまうことへの懸念を表明しました。
多くの人が死者を悼むために、そしてさらに重要な意義として災害の教訓を忘れないようにするために、独自に追悼式典を主催し続けることを検討しています。

                       

※スティーヴ・チャオは、日本での3重災害発生当時、アルジャジーラのアジア特派員でした。
エミー賞にノミネートされた経験を持つジャーナリストであるチャオは現在、ドキュメンタリー映画の製作者として活躍しています。

《完》
https://www.aljazeera.com/news/2021/3/10/devastated-communities-unseen-fear-japan-tsunami-2011

  + - + - + - + - + - + - + 

                    

2011年3月11日に始まった福島第一原子力発電所の大崩壊を、人として忘れて良いのか?!

声を大にして言いたいのはその事です。

暮らしを、住む場所を、家族というつながりを台無しにされた原発難民の人びと。

私は絶対あのような形で自分の人生を壊されたくない!

そう痛感するから、こうして福島第一原発の問題を取り上げている海外の記事をいちいち翻訳しているのです。

                       

荒れ果てた故郷、目に見えない恐怖:2011年東日本大震災・福島第一原子力発電所の崩壊《前編》

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

所要時間 約 10分

広告
広告

                     

地震と津波により何もかも破壊された後、今度は目に見えない恐怖を伴う徹底的な破壊が襲ってきた

3.11の災害現場、どんな心の準備も許さない容赦ない徹底的な破壊を見た

                      

                    

スティーヴ・チャオ / アルジャジーラ 2021年3月10日

                    

※ 日本の北東海岸に4階建て相当の高さの高津波が襲来してから10年になりますが、スティーヴ・チャオはアルジャジーラのアジア特派員であり、2011年の東日本大震災・福島第一原子力発電所の崩壊が発生した際、最も早く被災地に入った海外リポーターの一人です。

                  

名取の街に入った瞬間の事は決して忘れることはないでしょう。
私たちアルジャジーラの取材チームは地震発生の直後、東京を出発し夜通し運転して被災地に入りました。
冷たく澄み切った朝を、太陽が照らし出していました。

                    

高速道路を降り、私たちは消防署に立ち寄り津波の被害を受けた場所がどこなのか署長に尋ねました。
彼は私たちに通りを進み数ブロック先で右に曲がるように告げました。

                    

私たちが実際に目にしたものについて、どんな心の準備もできていませんでした。
私たちは海岸から何キロも離れた場所にいましたが、80,000人の人間が暮らしていたはずの都市のほぼ半分が平らにされていました。
それはまるで、海から出てきた巨大な手が名取市内に立っていた何もかもを一気に太平洋の海の中に引きずり込んだかのような景観でした。

                     

2011年3月12日、東日本大震災の津波に襲われた翌日の岩手県田老町

               

残ったのは一面の泥の海とあたり一面に散らばるひっくり返った車、破壊された家屋などの文明の断片でした。
海岸に向かって歩いていくと、津波の衝撃であるいはがれきに押しつぶされた人びとの手や足がぐったりと動かないまま伸びていました。
この津波により死亡したのは15,899人でした。
そして2,500人以上が行方不明のままです。

                        

現地で実況レポートを始めた途端、大きな余震が地面を揺るがしました。
また別の津波が発生したことを告げると警報が鳴り渡り渡り、私たちは被災地に唯一残された建物の2階に急いで駆け上がりました。
緊張したまま数分が過ぎ、やがてサイレンが止まりました。
それは誤報でした。
こんな事がこれから先何度も繰り返される事になるのでしょう…

                   

▽ 喪失感、痛み

                       

2011年3月12日、東日本大震災の津波に襲われた翌日の岩手県大槌町

                       

私たちの取材チームは、岩手県大槌町、宮古市、宮城県南三陸町、石巻市など、被災したコミュニティを次次と移動しました。
このうち岩手県田老町は1611年、1896年、1933年に大きな津波に襲われています。
こうした経験から住民は町を守るために高さ10メートルの護岸を建設していました。

                       

しかし2011年の津波は高さ15メートルに達しました。
家々はまるで巨大な洗濯機でもみくちゃにされた後、あたり一面にばらまかれたようになっていました。

                       

写真 : 2011年3月、田老町の被災地に立つスティーヴ・チャオ。

                 

破壊を免れた堤防の上で、在宅介護の仕事をしている畠山房子さんに会いました。
彼女の家も流されて無くなってしまいました。
彼女の隣人や友人は皆亡くなってしまいました。
彼女は破壊された町をあてもなくさまよっていました。
畠山さんは国内の別の場所に住んでいる息子に自分の無事を伝えるために、携帯電話のバッテリーを充電する方法はないかと私たちに尋ねました。

                          

写真 ; 岩手県田老町で自衛隊の捜索救助隊が残骸の中で発見された犠牲者のために黙祷を捧げていました。
救助隊のメンバーは、遺体が見つかるたびにに黙祷を捧げていました。

                    

後に畠山さんは東京の郊外に引っ越すことになりました。
現場にも同行したアルジャジーラのプロデューサーである朝倉綾氏がこの時畠山さんを取材しましたが、彼女は自宅と故郷を失ってしまった事について、震災の影響をほとんど受けていない日本の日常をとても遠くに感じるし、自分が日本の普通の生活とはもはや別の場所で生きているように感じていると語りました。
「津波の犠牲者は、日本の復興が進んだ事をしたことを知っています。しかし彼らはまだなにもかも失ってしまったことの痛みを感じており、トラウマを抱えています。」
朝倉氏はこう語りました。

                    

帰郷した人々のために、日本政府は沿岸部に最大高15メートル全長400キロメートルに及ぶ「巨大防潮堤」を建設するという前例のない計画に着手しました。
しかしこの計画には多数の批判が集中しました。
沿岸で暮らす一部の人々は壁は目障りであり、何世紀にもわたって家族を養うために大切にしてきた海から沿岸で暮らしてきた漁業関係者を切り離していると語っています。
しかし日本政府は、防潮堤の『防護』効果をはそうした心情的問題より優先されるべきだとしています。
この防潮堤がいついかなる時も津波を防ぎきれるのかどうかというのはまた別の問題です。

                        

多くの生存者が前に進もうとしました。
津波が気仙沼の町を襲ったとき、牛乳配達業の千葉清秀さんは真っ黒な津波に飲み込まれました。
千葉さんが生き残る事ができたのは、一個の発泡スチロールの箱にしがみついていたおかげでした。
数時間後、彼はなんとか橋の上によじ登り、氷点下前後まで気温が下がった夜を震えながら過ごしました。

                        

岩手県田老町の防潮堤の上に立つスティーヴ・チャオ特派員。

                     

翌朝、千葉さんは妻と2人の娘が亡くなったことを知りました。
9歳の息子瑛太くんだけが生き残りました。
仮設の避難所で出会った際、千葉さんは瑛太くんを支えていくためにすべての時間と愛情を注ぐ必要があり、嘆いている暇などはない、そう語っていました。
牛乳配達の事業を再建するための努力を続けながら、千葉さんは努めて空いた時間を瑛太くんと一緒に野球をして過ごしました。
瑛太くんは野球が大好きでした。

                     

千葉さんは『希望のヨーグルト』というマーケティング・キャンペーンを立ち上げ、瑛太くんのためにバッティングの練習施設を作るための資金集めにも挑戦しました。
同じ時期の始め頃、瑛太くんは母親と姉妹2人を喪ってしまった事にどう向き合えば良いのか、どう表現すれば良いのか苦しんでいました。
瑛太くんはいつの日か自分が生まれ育った町の再建に貢献し、母と姉妹の霊を慰めたいという願いを何とか口にしました。

                       

現在、瑛太くんは東京の高校を卒業し、イギリスに留学する事になりました。
海外に行くことにより、故郷の気仙沼と世界の都市との新たな絆を築く方法を模索していくつもりだと語りました。
3月11日の荒廃の中から生まれた瑛太くんの誓いは、彼の中で力強く脈打っています。

                     

                    

しかし破壊はそこで終わらなかったのです。
地震と津波により何もかも破壊された後、今度は目に見えない恐怖を伴う徹底的な破壊が襲ってきたのです。

 

※英文からの翻訳のため、個人名の表記に誤りがある場合があります。                        

《後編》に続く
https://www.aljazeera.com/news/2021/3/10/devastated-communities-unseen-fear-japan-tsunami-2011

福島第一原発事故 – 日本政府と東京電力『欺瞞と妄想の10年』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

所要時間 約 13分

広告
広告

                    

福島第一原子力発電所を完全廃炉にするための取り組みは先行き絶望的
放射性物質が直接降り注いだ地域では、人々の生活は取り返しのつかないほど、そして永遠に変わってしまった
日本列島の北側半分から国民全員を避難させる計画が、密かに作成されていた

                   

写真 : 2021年3月1日、津波で被害を受けた福島第一原子力発電所の原子炉建屋の脇を歩く作業員

                    

ジュリアン・ライオール / ドイチェ・ヴェレ 2021年3月11日

                 

環境保護団体は、事故によって破壊・機能不全に陥った福島第一原子力発電所を完全廃炉にするための取り組みは先行き絶望的であると述べています。
一部の地元住民は、福島第一原発が放出した放射性物質が降り注いだかつての故郷に戻ることは安全ではないとの不安を隠せません。

                    

日本史上最大の破壊を行った自然災害とそれによって引き起こされた原子力発電所事故が発生してからちょうど10年が過ぎました。
福島第一原子力発電所を運営していた東京電力は、事故収束・廃炉作業が予定通りに進んでいることを確信していると公表しました。

                    

しかし原子力発電に反対する活動を行っている人々はそうした見解を明らかにすることに批判を強めています。
メルトダウンに見舞われた3基の原子炉の廃炉措置を完了することができるという東京電力の計画は、「成功の見込みがなく、妄想に過ぎない」と主張しています。

                  

2011年3月、福島第一原発が吹き上げた放射性物質が直接降り注いだ地域では、人々の生活は取り返しのつかないほどそして永遠に変わってしまったと語りました。

                    

福島第一原子力発電所の危機は、2011年3月11日午後、マグニチュード9.1地震が襲った東日本大震災に続くものでした。
地震災害に関する近代的な記録管理が始まったのは1900年のことですが、それ以来世界史上4番目に強力な東北太平洋沖地震が場所によっては高さが40メートルを超える巨大な津波を引き起こしました。

                   

                

▽「戻っても安全だとなど告げられるべきではない…」

                      

津波は福島第一原発でも防波堤を乗り越えて殺到し、施設内の6基の原子炉建屋のうち4箇所の階下部分を浸水させ、原子炉の冷却水を循環させるウォーターポンプを稼働させるために必要な非常用発電機の機能を破壊しました。
その結果原子炉炉心が過熱状態になり、メンテナンスのため稼働を停止していた4号機以外の3基の原子炉がメルトダウンしたのです。

                       

事故の翌日、日本政府は周辺の市町村で生活していた154,000人以上の人々に避難を命じました。
そしてさらに多くの原子炉格納容器が破壊され、大量の放射性物質が大気中に放出された場合に備え、日本列島の北半分の広大な地域から住民を避難させる計画が密かに作成されました。

                   

福島の事故はチェルノブイリ事故に次ぐ史上2番目に深刻な原子力事故に分類されていますが、日本の国土の半分が汚染されてしまうというシナリオは現実にはなりませんでした。
しかし専門家は、約18,000テラ・ベクレルの放射性セシウム137が太平洋に放出され、同時にストロンチウム、コバルト、ヨウ素およびその他の放射性物質も海に流出したと推定しています。

                      

福島県の伊藤信義さんは10年前の震災の際、飯舘村郊外にある自宅から避難するよう求める当局の要請を無視しました。
伊藤さんは自分はすでに高齢であり、放射線による被曝が今後の寿命に影響を与える可能性は低く、自ら人間の実験台としての役割を果たすため、そのまま留まる決意をしました。

                     

                         

現在76歳になった伊藤さんは過去10年間、周囲の丘や、自分が栽培している作物や野生の果物や野菜の放射線レベルを計測・記録してきました。
「3年前、日本政府の当局者は避難命令を解除し、それ以来人々に帰還するよう促してきました。」
「私は事故発生以来、放射線量を記録してきました。確かに線量は下がってきましたが、ここの土壌は今後何年も汚染が続くでしょう。私はここが安全だとは思っていません。ですからかつての住民たちにもう戻っても安全だなどとは言うべきではありません。」

                       

福島第一原子力発電所の責任者であり事故収束・廃炉作業の最高責任者である小野晃氏は3月上旬のインタビューの中で、2041年から2051年の間に設定された原子炉を安全にするための作業完了の目標を修正する必要はないと語りました。
「私たちは30年から40年の最終目標にこだわっており、それに応じてタイムラインと技術および開発計画をまとめていきます。」
小野氏はAP通信の取材にこう答えました。

                     

この発言は、2基の原子炉の一次格納容器のセシウムの放射線量がこれまで予測されていた量よりもはるかに高いという新たな事実が判明し、事故収束・廃炉作業を一層困難にするであろうと予測される中、行われました。
さらにはメルトダウンした3基の原子炉の格納容器の底部に落下した溶融核燃料については、まだ不明の点が数多く残されています。

                  

またこれ程の規模の廃炉事業はこれまで試みられたことすらなく、一部の分野においては作業を完了させるための技術がまだ開発されていません。
それでも東京電力は作業を前進させられるとしており、3月末までにスケジュールを更新の上、公表することにしています。

                     

▽ 欺瞞と妄想の10年?

              

                    

グリーンピース東アジアの原子力発電の専門家であるショーン・バーニー氏は、東京電力が示したスケジュールが実現できる可能性はなく、日本政府当局は人々の生命への危険がまだ存在している事を無視し続けていると主張しています。
「これまでの10年間、歴代の日本政府は…原子力災害について偽りの神話をつくり上げようと試みてきました。」
バーニー氏はドイチェ・ヴェレに寄せた声明の中でこう述べています。

                  

「東京電力と日本政府は除染作業の有効性を不当表示し、放射線リスクを無視することによって、日本国民を欺こうとしてきたのです。」
「同時に彼らは福島第一原子力発電所が今世紀の半ばまでに『緑の大地』状態に戻すことが可能だと主張し続けています。」。
「日本政府と東京電力が続けてきた『欺瞞と妄想の10年』は終わらせなければなりません。廃炉計画を作り直す事は避けられない現実なのに、なぜ今やっている偽りをこのまま続け、さらに時間を無駄にしようとしているのでしょう?」

                   

グリーンピースが実施した調査によると、福島第一原発の放射性物質による汚染が最も深刻だと特定された840平方キロメートル(324.3平方マイル)の面積のうち、除染が行われたのはわずか15%にとどまっています。
そして放射線量が安全基準を上回っているにもかかわらず、日本政府は浪江町と飯舘村は住民が帰還しても安全であると発表したのです。

                   

                  

バーニー氏は福島第一原発の事故収束・廃炉作業を実現させるためには「アプローチの根本的な見直しと新しい計画」が必要であると述べています。
グリーンピースは、最悪の選択は溶融核燃料の残骸を含め、放射線で汚染されたすべての物質を『仮に回収できた場合』でも、それをそのまま無期限に保管することであると考えています。

                   

「福島第一は、すでに放射性核廃棄物の長期にわたる貯蔵場所になっており、今後もそうならざるをえないでしょう。」
バーニー氏はこう結論付けました。

                

福島第一原子力発電所が引き起こした事故は、前例が無い程多量の放射性物質を太平洋に流し込みました。
しかしそれ以前も、海は度重なる核実験と原子力発電所が放出する放射性廃棄物によって汚染されていました。
その影響は今日、見過ごせないレベルに達しています。

                      

写真集
2011年の地震で被害を受けた水戸市のアートセンター(写真)は、日本のアーティストの目を通して10年前の大惨事を振り返る「アーティストと震災:10年目の想像」展を開催しました。

                     

02
帰宅困難区域の魅惑的な風景
アーティストの加茂晃氏は作品の中で、帰宅困難区域における災害後の風景に対する心情の二面性を描いています。
放射性物質による汚染のリスクのため、誰も入ることができない場所の美しい風景が描かれています。
2019年作品のこの絵のタイトルは『福島県双葉郡浪江町北井手近くに立つ』というものです。

                  

03
『二層の町』
津波で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市の復興過程と、その変貌を動画、執筆、絵画で表現した作品です。
写真は映像作品『二層の町、私たちの立場を置き換えるための歌を作る』からの1シーンです。

                    

04
恐怖と差別に向き合う
ドキュメンタリー映画『赤い線で仕切られた教室』の中で、藤井光氏は、見えないものへの恐怖と苦悩に苦しめられた福島の人々が経験した差別の問題に取り組んでいます。

                   

05
絆を作る
実在の人々との出会いを題材にしたこのビデオシリーズでは、原発事故が大災害後の人々の日常生活に与える影響と、日本社会に生じた放射線リスクに関する混乱を描いています。

                     

06
『山が砂を積み上げた山に変わった』
佐竹真希子さんの絵は、被災地の景観が東日本大震災の後に劇的に変化した様子を描いています。
「ひよりやま - ハローアゲイン」と題されたこの作品は、仙台の蒲生にあった日本で最も低い山の印象を描いたものです。
津波に襲われた結果、蒲生地区は荒れ地に変わり果てました。

07
『Don't Follow the Wind - DFW (風を追わないで)』は、2015年から複数の『帰宅困難区域』で行われている共同プロジェクトです。
12人のアーティストが帰宅困難区域内で作品を展示しています。
しかし、制限が解除されるまで誰も実際に会場を訪れることはできません。
プロジェクトに関わったアーティストの一人であるグランギニョール・ミライは、アーティストが帰宅困難区域を訪れた際のビデオを制作しました。

                 

https://www.dw.com/en/japan-fukushima-nuclear-disaster/a-56825937

10年では消えない!あの日の悪夢のような光景《後編》

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

所要時間 約 13分

広告
広告

                     

津波の破壊力の凄まじさは、体験したものでなければ理解できない
福島第一原発の事故の影響を受けたか?受けなかったか?それがその後の運命を大きく変えた

                    

地震と津波が襲った数日後、事故を起こした福島第一原子力発電所が煙とともに大量の放射性物質を噴き上げました。

                     

城塚恵美子、ブレイク・エッシグ、小倉淳子、ダニエル・カンピシ / 米国CNN 2021年3月11日

                  

黒沢さんと黒沢さんが救助した男性が乗った車はたちまち脱輪したため、2人は車を捨てて避難所を求めて走り出しました。
黒沢さんは急いで木によじ登ろうとしましたが、枝が折れて土手に墜落しました。
それでも再び木に登ろうと木に飛びついた瞬間、津波が押し寄せてきました。
黒沢さんが救助した男性も同じように木にしがみつきました。

                 

「私はもうダメだと思いました。」
黒沢さんがこう振り返りました。
「津波の破壊力の凄まじさは、体験したものでないと理解できません。津波はその通り道にあるすべてを飲み込み、そして破壊し尽くす驚異的な的力を持っています。」

                   

▽ 福島第一原子力発電所事故

                   

                   

津波は東北地方の太平洋岸一帯に押し寄せました。
宮城県に隣接する福島県に押し寄せた津波は、福島第一原子力発電所において原子炉のメルトダウンを引き起こしました。
日本は1986年のチェルノブイリ事故以降最悪の原子力災害に落ち込み、2011年3月11日午後4時36分、原子力緊急事態を宣言しました。

                    

赤十字の資料によると、福島第一原発の近くに住んでいた30万人以上が一時避難を余儀なくされました。
さらに5万人が自主的に放射線量の高い区域から移動しました。

                  

               

その後の数ヶ月そして数年で、福島第一原発周辺の一部の地域はゴーストタウンと化し、東京電力(TEPCO)の職員、安全検査技術者、そしてあえて危険な場所に行くスリルを求める観光客だけが訪れる場所になってしまいました。

                

東京電力は原子力発電所事故を引き起こして以降、原子炉を冷却して放射性物質の流出を止めるため、毎日数百トンの地下水を汲み上げ原子炉に注入する作業を続けてきました。
あたり一面に散乱した放射性物質を取り除く作業と事故収束・廃炉作業には数十年かかり、数十兆円の費用がかかると予想されています。

                   

                   

福島当局によると、事故が始まってから10年が過ぎた現在でも、35,000人以上が避難を余儀なくされたままです。

                     

原子力発電に反対する公益団体である東京の原子力情報室のスポークスマンである松久保肇氏は、東日本大震災で地震と津波の被害だけを受けた地域では、復興はほぼ実現したと語っています。

                 

しかし福島第一原子力発電所周辺の復旧作業は多額の費用が注ぎ込まれたにもかかわらず、2010年以降人口が半減したことも加わって、メルトダウンした後ほとんど進展がありません。。
「事故発生から10年、私たちが学んだことは一度原発事故が発生してしまったら、環境を元どおりにすることはほとんど不可能だということです。」
松久保氏がこう語りました。

                   

                     

現在東京電力は、原子炉を冷却するために使用された100万トン以上の放射能汚染水を福島第一原発敷地内の巨大なタンク群に貯蔵しています。
しかし貯蔵スペースは急速に減少し、環境大臣を含む日本政府当局は唯一の解決策はそれを海に放出することであると発言しました。
しかしこの計画は環境保護活動家と漁業関係者からの強い反対に直面しています。

                        

2014年、日本政府は年間放射線量が20ミリシーベルト未満になった指定避難区域の避難命令の解除を始めました。
20ミリシーベルトは国際的な原子力安全監視機関が推奨する最大被ばく値であり、2度の全身CTスキャンによって浴びることになる放射線量に相当します。

                     

                 

日本の環境省は2020年3月の時点で、居住者も立ち入りが禁止される帰還困難区域のままになっているのは福島全県の2.4%にとどまり、これら地域の一部では短期間の訪問なら可能だと述べています。

                      

しかし関西学院大学が2020年に実施した調査では、除染作業が実施されたにもかかわらず、避難した人々の65%は福島県に戻りたくないという意思を明らかにしました。
全体の46%が環境の残留放射能汚染を恐れており、45%がすでに他の場所に定住したと回答しました。

                    

福島第一原発の事故は日本の原子力発電への長年の関わり方をも揺るがすことになりました。
原子力業界団体である世界原子力協会によると、事故前、日本は約50基の原子炉が国内の電力需要の30%以上を供給していました。

                   

                      

この状態は最後に稼働していた北海道内の原子炉が検査のために停止した2012年5月5日に途絶し、日本は45年以上ぶりに原子力発電所がまったく稼働していない状態になりました。
※大飯原子力発電所の2基の原子炉は2012年に一時的に再稼働されましたが、1年後に再び停止しました。

                        

福島第一原発で原子炉がメルトダウンしたことを受け、ドイツなど数カ国は2022年までにすべての原子炉を閉鎖することを宣言しました。
しかしその事故から10年後、日本の専門家の間では、化石燃料を燃やすよりも環境に良いとされる技術の利用継続について意見が分かれています。
その間にも原子力発電の存在意義は徐々に失われていきましたが、2015年8月、九州南部の鹿児島県川内市にある原子炉が再稼働しました。

                   

▽ 歳月の経過

                    

東日本大震災直後の石巻市門脇小学校の校舎から眺めた石巻市内の様子。

                  

3月12日の朝になって、黒沢さんはやっと松の木から降りることができました。
彼が暮らしていた街は巨大な爆弾によって破壊されたかのようになっていました。
自宅に戻るためにはがれきや陸に打ち上げられた船の残骸を避けて歩かなければな李ませんでした。

                     

倒壊した建物は水に浸かり、火災の煙が充満した中で呼吸をするのにも苦労しなければなりませんでした。
黒沢さんの奥さんは、高台の学校に避難して無事でした。
しかしたった1日で、黒沢さん夫妻は自分たちの生活を構成していた友人、そして生活手段も財産その他身の回りにあった一切のものも、何もかも失ってしまいました。

                    

福島県南相馬市で生存者の捜索をする救助隊員

                  

それから半年の間、黒沢さん夫妻は賃貸住宅、そして友人の事務所で暮らしました。
そして2011年8月になり、彼らは3年以上にわたって自宅になったプレハブ作りの仮設住宅に引っ越しました。
黒沢さんは配管技術を生かして地域社会で必要とされる仕事を不定期で手伝うボランティアをしました。

                      

黒沢さんはまだ石巻に住んでいます。
「私の暮らしはあたりまえだと思っていた日常から異常な日常に移行し、それがあたりまえになりました。そして1年が過ぎ、2年が過ぎました。そして今やっと異常な現実が正常に戻りました。」

                     

彼は5年間、夜毎瓦礫と化した故郷をさまよい歩く夢を見ました。

                     

                     

今日の石巻において原子力発電に対する人々の感情は、東日本大震災発生から10年間の人々の体験がそれぞれ異なるのと同様、一言では言い表せないと黒沢さんが語りました。
「この10年について私はどう感じているのかと尋ねられることがあります。でもその時間はまだ終わってはいません。私はとにかく最善を尽くたいと願っているだけです。」

                  

写真 : 2011年4月10日、宮城県石巻市で車のヘッドライトで照らされた看板に「がんばろう!」と大書きする黒沢健一さん(中央)とその仲間。

                     

黒沢さんは長年にわたり自分の人生、ビジネス、そしてコミュニティを再建するために戦ってきました。
今日、沿岸には故郷の石巻を海から守るため、高さ10メートル近い堤防が約56キロメートルに渡って築かれました。
市の郊外に新しい災害公営住宅が出現しましたが、他の住宅はまだ再建途上です。

                      

黒沢さんによると、人々の感情的な傷跡が言えるためには、少しずつ環境を整備していくのと同じくらい時間がかかります。
しかし過去に生きることには意味はないと語りました。

                       

宮城県亘理町で泣き崩れる女性を慰める男性

                  

今日、黒沢さんは災害への備えについて他の人々に教えることに積極的な役割を果たし、前進し続けています。
「この災害から私が学んだことの一つは、人々はお互いに支え合う必要があるということです。私たちには希望があると思います。」

                   

時々、彼は自分の命を救った木の脇を通り過ぎることがあります。
彼はもう一度だけ、その木に登ろうとしたことがあります。

                    

※英文記事からの翻訳のため、個人のお名前、固有名詞の表記に誤りがある場合があります。ご容赦ください。

《完》
https://edition.cnn.com/2021/03/10/asia/japan-tohoku-fukushima-tenth-anniversary-hnk-dst-intl/index.html
  + - + - + - + - + - + - + - + 

10年では消えない!あの日の悪夢のような光景《前編》

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

所要時間 約 10分

広告
広告

                     

もう戻らない命、鮮明に残る残酷な光景の記憶、歳月の経過では埋められない心の穴

原子力発電所の事故がもたらした荒廃は自然災害よりもなお一層深刻だった

                       

写真1 : 3.11東日本大震災によって破壊された岩手県陸前高田市内。のちに『奇跡の一本松』として有名になる右手の松は300年間防風林として陸前高田を守ってきた70,000本の森の中の1本です。

                    

城塚恵美子、ブレイク・エッシグ、小倉淳子、ダニエル・カンピシ / 米国CNN 2021年3月11日

                      

黒沢健一さんは、周囲の水面が上昇し、足下の道路が完全に浸水していく中、まさに死と隣り合わせの状況で木にしがみつきました。
2011年3月11日の午後2時過ぎ、約6分に渡りマグニチュード9.1の地震(日本で史上最悪の地震)が発生、巨大な津波が発生、黒澤さんがずっと住み続けてきた石巻市(東京の北東370 kmの場所にある太平洋沿岸の都市)に襲いかかりました。

                     

写真2 : 2011年3月11日時点の石巻市内の様子

                      

高さ10メートル(約30フィート)の津波が押し寄せる数分前、当時40歳だった黒沢健さんは急いで松の木を3メートルほどよじ登り、両足をしっかりと幹に巻き付け、全力で木にしがみつきました。
「あたり一面が海になったように感じました。水がとても冷たくて、骨まで凍えるほどでした。」
黒沢さんはこう回想しました。

                   

水面が膝の高さまで来た時と、黒沢さんはハンドルを握ったままの人が乗った車が次々と押し流されていくのを目撃しました。
黒沢さん同様他にも木にしがみついていた人々がいましたが、押し寄せる波が叩きつけ水中に沈んでいきました。

                     

黒沢さんは何時間もの間氷点下の気温に耐え、木にしがみついていました。
彼は彼の妻のことを考えました-彼は回線が途絶える前、木によじ登った後携帯電話で15秒間妻と話をしていました。

                       

写真3 : 市街地に津波によって打ち上げられた船舶が横たわるこの時の光景は、10年を経た今もなお多くの人々の心をかき乱します。

                   

やがて夜が明けると、黒沢さんは遠くにいる誰かが最後の力を振り絞るようにして助けを求めているのを聞きました。
彼はその人のその後の運命を知らないと言います - しかしこの瞬間黒沢さん自身は日本の歴史の中で最も破壊的となった自然災害を生き延びたことになったのです。

                      

巨大地震と引き続き発生した津波により2万人以上の人々が死亡または行方不明になりました。
しかし、しかし原子力発電所の事故がもたらした荒廃は自然災害よりもなお一層深刻でした。
東日本大震災の被災地にあった福島第一原子力発電所は、それ自体が大惨事の震源になったのです。

                    

写真4 : 2011年3月11日宮城県名取市。津波は各地で大規模な火災を引き起こしました。

                   

最初の地震から50分も経たないうちに、原子力発電所を守るはずだった高さ10メートル(33フィート)の護岸設備を乗り越えて津波がやってきました。
原発の敷地内に水がなだれ込み、原子炉の冷却システムが機能を停止した結果、3基の原子炉で核燃料が溶け落ち、人が浴びればたちまちのうちに死んでしまう高放射性物質が周辺地域に向け放出されました。

                     

予定されていた東日本大震災・福島第一原発事故10周年を記念する式典は新型コロナウイルスの感染拡大のため、人の密集を避けるためなどの理由から、ごく小規模な形で行われることになりました。
東京では、菅義偉首相、今上天皇・皇后両陛下が追悼式に出席し、10年前の地震が発生はた時刻である午後2時46分に黙祷を行います。

                    

写真5 : 行方不明になった息子を捜索しながら泣き崩れる男性。男性の長男は津波で大量の犠牲者を出した大川小学校の教師でした。

                    

東日本大震災による破壊は徹底したものでしたが、生存者の多くは自分たちの生活と地域社会をなんとか再建しました。
それでも災害の深い傷跡は永遠に残りることになにるでしょう。

                        

写真6 : 犠牲者の遺族の多くは、大切な家族の遺品として写真アルバムだけが手元に残ることになりました。

                     

▽ 津波の破壊力

                      

宮城県で2番目に大きな都市である石巻は、津波による被害が最も大きかった市町村の1つでした。
国際津波情報センターの記録では、津波は約5平方キロメートル(約500ヘクタール)の土地を浸水させ、都市のほぼ15%が水没しました。

津波は石巻市内だけで5万戸以上の家屋や建物を破壊し、かつては賑わっていた市の中心部や港湾設備などインフラのほとんどを破壊しました。

石巻市内だけで3,100人近くが命を落としました。

                      

写真7 : 震災発生から一夜が明けた宮城県気仙沼市内。この場所で暮らしていた人々の中には、10年を過ぎた今もまだ仮設住宅で暮らしている人がいます。

                         

配管の仕事をしていた黒沢さんは、地震が発生したときは自分の街から約12 km離れた隣の町で働いていました。

彼は銀行に避難していた妻に電話をし、自分が行くまで自宅で待つように伝えました。

                    

写真8 : 行方不明の家族を探すため、情報を求めるメモが大量に貼られた掲示板

                    

その数分後、津波警報が発令されました。

                   

黒沢さんはもう一度妻に電話をかけようとしましたが、もう電話はつながりませんでした。
妻の身を案じる黒沢さんは車に飛び乗り、自宅に向かって車を飛ばしました。妻を車に乗せて一緒に高台に避難するつもりでした。
たくさんの車が黒沢さんとは逆の方向に向け走り去って行きました。度々地震が発生するこの国土で、制度的に設定された指定避難区域に向かう車列でした。

                   

写真9 : 宮城県利府町の公共施設に並べられた東日本大震災の犠牲者の棺の列。しかし遺体が見つからないままの人もまだ大量に残されていました。

                      

自宅に近づくと、遠くに真っ黒な津波の壁のようなものが見えました。
近づくとそれは津波にのみ込まれ、波頭で浮き沈みしている何台もの車であることに気がつきました。。

                    

それを見て必死に車をUターンさせていたとき、足元まで水に浸かりながら歩いて逃げようとしていた男性の姿が目に飛び込んできました。
「私は車の窓を開けてその男性を車の中に引きずり込み、スピードを上げて津波から逃れようとしました。」
「でもまさにその瞬間、津波が頭上から襲いかかってきたのです。」
黒沢さんが当時の様子についてこう語りました。

                 

写真10 : 宮城県南三陸町で瓦礫の上を乗り越えて生存者の捜索を続ける救助隊員。

                        

《後編》に続く
https://edition.cnn.com/2021/03/10/asia/japan-tohoku-fukushima-tenth-anniversary-hnk-dst-intl/index.html

このサイトについて
ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
最近の投稿
@idonochawanツィート
アーカイブ
広告
広告
カテゴリー
メタ情報