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星の金貨 東日本大震災や音楽、語学、ゴルフについて語るブログです。

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英語が聞き取れるでShow

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所要時間 約 4分

ある日、気がついたら英語がわかるようになっていた!
そんな楽で安易な展開を願うあなたに、とっておきの英語マスター方法をお教えします。まあ、英語というより、語学全体に応用できる方法なのですが...
用意するのは、DVDレコーダー(テープをいちいち巻き戻すのが苦にならない方は、ビデオでもOKです)と、風呂上がりなど、何回繰り返し同じ番組を見ても家族や周囲の人にいやがられないスペース。

ジャマイカ 1932年発行

ジャマイカ 1932年発行

まず、自分の英語レベルに合うNHKの英語番組を探します。本当はテレビ番組がベストなのですが、今チェックしてみたところ、中上級向けの『ニュースで英会話』以外は、あまりふさわしい番組は無いようです。ラジオの方は
英語5分間トレーニング / ラジオ英会話 / 基礎英語1 / 基礎英語2 / 基礎英語3 / 入門ビジネス英語 / 実践ビジネス英語
と非常に充実しているのですが、経験から言いますと、ラジオの方は楽で安易な展開にはあまり向かないのです。
まず、1回分のテレビ放送を録画します。1回分でいいのです。後は風呂上がりなど、何かしながらこの1回分の放送を丸暗記するまで繰り返し見ます。英語の部分は、声を出して一緒に言います。発音が下手でも何でも放送の声と同じ程度の声を出して、同じスピードで話します。繰り返すうちに発音も、リズムも何となく身についてきます。
これがすなわち『英語が身につく』ということ。
加えてどの単語、あるいはどの言い回しのところで自分がわからなくなっているのか気がつきます。
週2回放送があるから、というような理由で『録りだめ』はしないでください。見ていない本数が増える一方だったりすると、それがプレッシャーになって逆にやる気がなくなったりします。ただし、何本かの中から気に入った番組を見つけるのは悪くありません。何度も何度も見る訳ですから。
語学番組を利用しても中々うまく行かない人には、共通のパターンがあります。几帳面に放送プログラム通りに進行しようとする人です。1回ですべてマスターできるなら何の問題もありませんが、まずそんな事は無いはず。どこか解らないところがあれば、回が進むにつれ解らないところが増え続け、あげくは投げ出してしまうことになります。NHKの語学番組は6ヶ月で1セットになっていますが、極論すれば半年間に1ヶ月分をまるまる暗記するだけでいいのです。
英語が苦手、という人は英語に対して感覚的な違和感が大きい人が多いようです。20分~30分の番組を丸ごと暗記するうちに、こうした違和感は少しずつ解消されていきます。一本暗記し終えたら、次に進みます。こうして3~4本丸暗記してしまうと、もう英語が『得意』になったような気がしてきます。これが大切、こうなるとこれまで英語が聞こえてくると無意識のうちに遠ざけていたのが、今度は積極的に耳が『迎え』に行くようになります。
ただし『暗記』といっても何も無いところで番組の英語をすべてそらんじる必要は無く、テレビを見ながら番組の進行に合わせ英文が自然に口をついて出てくる程度でいいのです。
せっかく英語のお話なので、今日はこれを覚えていただきましょう。
motivationは今や日本語になりかかっているモチベーション。count は『数える』などの意味の動詞ですが、『価値がある』という意味もあり、このフレーズでは『大切である』と訳されています。
It's the motivation that counts. - 大切なのはやる気!
確かに......

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波に負けぬ花

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所要時間 約 5分

4月27日、28日に報道された「皇后様の水仙」の話題は、被災地に暮らす人々の心におおきな勇気を与えてくれたと思います。

西ベルリン 1980年発行

西ベルリン 1980年発行

27日の段階では宮城県内の避難所にいた女性が、津波で流された自宅の庭から摘んできた水仙を皇后様がお受け取りになった、というまでの報道でした。
しかし、宮城県民を始め被災地の人々がよりいっそう励まされたのは、翌28日の報道で、被災地から戻られた皇后様が夜、特別機のタラップを降りられる際、その手に受け取ったそのままの水仙の小さな花束をしっかりと抱いていらっしるお姿が映し出されたときでした。
避難所の女性は水仙の花をお渡しする際、
「この水仙は津波が押し寄せた庭に咲いた花です。私たちも津波に負けないようがんばります。」
と話されたそうです。
その水仙を皇后様が胸に抱いて、飛行機のタラップを降りられたということは
「あなた方被災された方々の思いを、しっかり受け止めましたよ。」
という無言のメッセージだったと思います。
現地にも行かず、国会の場やテレビカメラの前でだけ虚言を弄する政治家諸氏と比べ、何という違いでしょうか。

天皇皇后両陛下は千葉・茨城から順番に被災地を回っておられます。そして訪問先では被災者と同じ目線に立たれ、お話をされていました。
誤解の無いようお話ししますが、私は皇室崇拝主義者ではありません。
しかし、明治帝以来、日本の天皇家が好戦的であったためしがない、と理解している点で私は日本の皇室というものを見誤ってはいない、と思っています。
明治天皇も日清戦争、日露戦争、ともに反対である事をはっきりと明言されています。特に日清戦争については、欧米の帝国主義的侵略の前に、同じアジアの国が相争う事の非を説かれています。
昭和天皇も昭和10年代、軍部が勝手に独走し、どんどん戦争を拡大して行くことに深い懸念を抱かれていたようです。昭和天皇は青年のときに、欧米への視察旅行をされるなど、開明的な立場を取られていましたが、陸軍などの一部が勝手に別の虚飾を施し、結果として当時の日本人に塗炭の苦しみ味あわせました。
昭和天皇は太平洋戦争の後半、日本の敗北が見えた段階で、一日でも早い終結を望まれていたという傍証があります。
当時の日本政府が昭和天皇の意思を体し、早くに戦争を終結させていれば、広島・長崎への原爆投下はもちろん、ソ連軍による満州での日本人大量虐殺を防げたかもしれません。どころか、北方領土はもちろん、千島列島や樺太の南半分でさえ日本領土のままだったも知れないのです。

戦争末期、米国兵士の消耗を恐れた『日本人嫌いの(don't like ではなく、hate の意味の)』アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、ソ連首相のスターリンに働きかけます。1945年、対ドイツの無条件降伏を勝ち取った暁にはソ連軍を極東に回し、日本に宣戦布告するように。
代償を求めるスターリンに対し、ルーズベルトはソ連は千島列島・樺太を「好きにしていい」と言い放ちます。
これが1945年2月のヤルタ会談の中のヤルタ秘密協定の内容です。
『一億総玉砕(ヒトラーやゲッベルス、ヒムラーやゲーリングの末路を知った当時の日本軍部高官が、敗戦後の自分たちの運命を予感し、国民も道連れにする事で自分たちの恐怖を薄めようとした、卑劣な動機によると思われる)』のスローガンを叫びながら、先の無い戦いをずるずる続けることで、日本の軍部は広島・長崎への原爆投下、満州移民の虐殺、そして樺太・千島の喪失という大災厄を日本にもたらしました。

現在の天皇陛下・皇后様はことあるごとに「日本の平和、世界の平和」ということを口にされます。
平和への思いを強く抱きながら、日本にまったく正反対の道を進ませるために利用されてしまった事への昭和天皇のご無念が、胸にきざみ込まれているのかもしれません。
皇后様が被災地で受け取った水仙の花を、帰路手を放すこと無くお帰りになられた事は、国民に深く静かな感銘を与えたと思います。

今、国会議事堂を始め『要路』に立つ人たちには、こうした皇后様に無念の思いだけは抱かせないよう、肝に銘じていただきたいものです。

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現場はほんとうに一生懸命働いている

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所要時間 約 4分

私たちが暮らす仙台市は、今回の東日本大震災の被災地のほぼ真ん中に位置しています。
そこで毎日一番多く目にするものは、『災害派遣』表示の自衛隊車両です。
装甲車両、各種トラック、各種ジープ。

【消防200年】1974年イギリス発行

【消防200年】1974年イギリス発行

子供の頃、タミヤのプラモデルでこうした車両をたくさん作った世代としては、平時なら見かければちょっと興奮したのですが、今はただ頭が下がるばかりです。
実はこの白地に『災害派遣』の文字を染めた、あるいは手書きされた布地が風雨にさらされ、かなり痛んできているのが遠目でも解るようになって来ました。
これらの車両は朝、西から東に向かい、夕刻になると今度は西に向かって走って行きます。
言うまでも無く、津波で大きな被害を受けた太平洋岸の地区で遺体の捜索をしたり、がれきの撤去作業に従事されています。
それが数えれば、もう50日になろうとしています。現場の自衛隊員の方は大分消耗され、疲労が蓄積されて来ているとうかがいました。
先日、女川町の友人のもとを見舞った際にも、一面のがれきの中で自衛隊の方々だけが黙々と働いておられました。
友人の家族は
「自衛隊の人たちは朝8時になると、一斉に展開し捜索・がれきの撤去を始めるんです。夜は被災者の人たちの入浴の世話をしたり、何でもやってくれるんです。本当にこれものです。」
と言って、両手を合わせて拝むジェスチャーをされていました。
考えてみてください。
被災された方々の遺体は、まれに報道写真で部分的にだけ見る事がありますが、それだけでも悲惨の思いを強くします。
また、女川、石巻、多賀城などの津波の被災地に行くと、誰もが破壊の凄まじさに口がきけなくなる程の衝撃を受けます。
その中で、自衛隊の方々は毎日毎日がれきを片付け、亡くなられた方々の遺体を捜しておられるのです。
その労苦、私たちに理解できるでしょうか?
まして遠隔地から派遣されている部隊の方は、石巻市内で見かけましたが、テントを張って『野営』されているのです。
眠る事はできても、疲れが取れるとは思えません。
今回の被災地では、現場におられる方々が本当にがんばっておられます。
自衛隊に加え、警察、消防、そして福島第一原発の作業員の方々......
遥か70年以上も前、日本にも『軍隊』があった頃。
イギリスだかの観戦武官が日本の軍隊組織について、こう語ったそうです。
「日本の軍隊というのは実に不思議な組織である。将校の中で最も愚かな人間が参謀肩章を吊っている。」
太平洋戦争では、これらの参謀が兵士の命をどぶに捨てるような作戦を数多く立案し、失敗すると責任をすべて現場のせいにしています。
現在の自衛隊はそんな事は無いと思いますが、タモ○○なんて人も居ましたから、ちょっと心配になります。
今日も国会議事堂の中で怒号したり、野次ったり、被災地から見ると空騒ぎをしているとしか思えないセンセイ方にぜひ申し上げたい。
一日、たった一日でいいから現場を手伝え!と。
天皇皇后両陛下だって被災地にいらして、ひざを折って避難所で暮らす一人一人を、現場で働く人々をしっかり励まして行かれたんですから......

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被災地の悲しみ

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所要時間 約 3分

被災地で暮らしていて感じる悲しみのひとつ。それは余震のたび、街が少しずつ壊れて行く事です。
3月11日の震災の後、当然の事ながら被災地ではどこも、再び立ち上がるための様々な作業が始まりました。店舗も少しずつではあっても片付けが進み、営業再開直後は店舗の前にワゴンを並べて商売していた店も、本格的な営業を再会するところが増えて来ました。
オランダの道何より、JR在来各線の復旧・運行再開は、孤立した地区が近隣とつながる事の安堵感を与えてくれました。
そこへ今度は4月7日の大地震です。
仙台市の中ではこの地震で数多くの建物、店舗が本格的に破壊されてしまいました。
道路も大きく陥没したり、地割れができたり。
徐々に回復していたライフライン、電気や水、特にガスの復旧には大きくブレーキがかかり、せっかく再開できたのに、再び不通になった地域が続出。
JR東日本の在来線は再びストップ、新幹線の再開見通しもずれ込んでしまったのです。
それでも4月にはJR新幹線を含む様々なライフラインが復活し、全国から仙台に集合していた「都市ガス開栓隊」の解散式が行われたりしました。
けれども、道路のひび割れは増え続けているのです。
私は震災以来、一時ガソリンが街から消えかかったこともあり、悪天候の日は車で通勤しますが、それ以外は自転車で片道7キロの通勤をしています。途中、仙台市東郊を流れる大きくもない川の両岸に作られた自転車専用道路を走ります。
この道の地割れが余震が起きる度、毎日増えているのです。
今回の地震で東日本が地盤沈下してしまった事はすでに伝えられている通りですが、仙台市内はこのため、市内各所の橋と道路の間に大小の段差ができています。幹線道路と言えど例外ではなく、油断してスピードを出すと車が大きくバウンドしてしまうほどです。仙台市の幹線道路のひとつ、国道4号線も段差の応急修理が終わったと思ったら、震度4の余震が起きたときには、今度は縦に10メートル程の亀裂が入ってしまいました。
こうした亀裂が大小あちこちで増え続け、
「何だかどんどんこわれて行くなァ…」
と、少し悲しくなって来ます。
昨日もそんな事を考えながら、自転車のペダルをこいでいたら、目の前をサッと何かが飛び過ぎていきました。
目で追いかけると、ツバメが一羽、颯爽と空に舞い上がっていきます。
「ツバメ、もういつの間にか春、か…」
被災地の悲しみのひとつ、それは季節の移り変わりが感じにくくなっている事。

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そして7人全員が生きのびた……

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所要時間 約 7分

やっと女川に住む友人のもとを尋ねることができました。

仏切手帳

仏切手帳

4月23日土曜日雨、朝7時前に自宅を出発、仙台市東部道路(有料道路)仙台東インターから一路石巻を目指します。5キロほど走ってすぐに渋滞に巻き込まれました。いっこうに進む気配がなく、仕方なく一般道に出て北へ。松島海岸インター近くに来て見上げた有料道路は車がスイスイ。あわてて同インターから再び有料道路にのったところ、今度は1キロも進まないうちにまた渋滞。そんなことを繰り返しながら、約2時間後、普段の3倍ほどの時間をかけて石巻市内北部に入りました。まず驚いたのは石巻市総合運動場に並ぶおびただしい数の自衛隊のトラック、その隣には無数の野営テント。しかし市内の道路はあちこち亀裂が入り、地割れし、陥没しており、脇見なんかしていられません。行き交う車すべてが慎重に進路を選び、その為にあちこち渋滞が発生しています。市街地に向かう方は大渋滞、通じようのルーとは使えそうにありません。幸い多少の土地勘があった為、女川街道の裏道を通り、山越えをして万石浦のところから街道に出ました。
出た途端、津波で舗装がかはがれ、大穴だらけの砂利道を走らされるはめに。幸い100メートルほどで舗装された道に戻りましたが、やはり陥没や亀裂があってスピードを出す訳にはいきません。
そして9時30分、女川町内へ。しかし、牡鹿半島と町内への岐路に自衛隊の人たちが交通整理をしていて、町内には入れなくなっています。友人に電話をしてそこまで迎えにきてもらいました。後で聞くと、町内のがれきの本格的な撤去に着手する為の通行止めであったようです。
友人は女川町内で経営していた事務所と少し離れた場所の自宅の2棟ともに津波に流され、町内の小高い場所で隠居されているご両親のお宅に避難していました。
尋ねる前、その場所をGoogle Mapの航空写真で確認したとき、そのお宅の回りががれきだらけになっている様子が写っていましたが、その拡大映像が目の前に広がっています。まるで砲弾の直撃をくらったように上部構造がメチャメチャになったワゴン車が道ばたに放置してあります。さらに進むと壁が破壊されたたくさんの家と、奇妙な角度でその家に寄りかかったり、壁に突き刺さる破壊された乗用車。決まり事のようにその組み合わせが目の前に次々と現れ、津波の持つ想像もできないほど大きな破壊力に唖然とさせられます。
町内の4分の3が壊滅した女川町、そこから先、海に向かってはがれき以外のものを見る事はできませんでした。
半ば感覚がおかしくなったまま、友人のご両親の家の前に車を止め、家の中に招じ入れられました。
幸いご両親、男の子3人を含め家族7人が全員無事でした。しかし、『あの時』のお話を聞くと、何ごとも無くここに全員そろっているのではない事を教えられました。

当日、本人は今避難している場所からずっと海に近い、埠頭から350メートルの場所にある事務所で仕事をし、中学生の男の子1人、小学生の男の子2人はそれぞれ学校に、奥さんは「浜の方へ」買い物に行っていました。ご両親は今いるご自宅に。
午後2時48分、友人は恐ろしい揺れが収まると、事務所を飛び出しました。とりあえずまず、小学生2人を引き取りに小学校に向かいます。校門を入ると、子供たちが校庭の真ん中にかたまって避難しているのが見えました。
友人のパニックは、その中に自分の子が2人ともいなかった瞬間から始まったのです。
あわてて小学校を飛び出し、通学路をたどります。通学路は町中を迂回する山の斜面にありますが、2人とも見つかりません。「もしや?!」と思い、ご両親のお宅を確かめると三男の息子さんが避難していました。町の中学校は高台にあるため、長男が学校から出ていない事を祈りつつ、次男の姿を求め再び通学路の斜面に向かいました。そして、3時15分、町に津波がやって来たのです。
たちまちに町内には真っ黒な水があふれ、凄まじい勢いで町をのみ込んで行きます。

その時、買い物中だった奥さんは埠頭から250メートルほど、町の指定避難所だった少し小高い場所にある町立女川病院に避難しました。病院の駐車場には避難して来た車でいっぱいなり、ほとんどの人が車に乗ったまま不安そうにしています。病院の入り口には車椅子に乗った数人の高齢者が、これも不安そうに外を見ていました。
奥さんはとりあえず病院1階の待合室に入り、子供たちの身を案じていました。
その時、真っ黒な水が病院の玄関から突入して来たのです。
たちまちに病院の一階全部が水につかり、水かさはどんどん増して来ます。奥さんはなす術も無いまま、どんどん天井の方へ押し上げられて行きました。
そして、水かさは天井までの高さ残すところあと30センチで止まったそうです。
徐々に水が引いて行き、再び床に足が着いた時は立っているのがやっとでした。
視線をあげると、病院の入り口付近にいたはずの車椅子の高齢者も、駐車場の車も、何もかもが流されてなくなっていました。

津波はご両親の自宅までやって来ました。まさにそこが津波の末端だったのです。
一番近い埠頭から1,100メートル前後、なだらかな坂を上って来たところにご両親の家があります。
津波は周囲の家を破壊しながらその敷地まで入り込み、床下を水浸しにし、そこで止まりました。
数メートル少し下がった隣家、南側と東側のお宅は全壊しました。
生きた心地もしなかったでしょうが、それ以上に衝撃であったのは、津波が来るすぐ前に飛び出して行った息子さんの生死については、『絶望的』と思わざるを得なかった事でした。
たった一人残った孫を抱きしめ、廃墟となった窓の外を呆然と眺め続けたと言います。

そして、再会。
まず友人が車を運転して帰って来ました。
ずぶぬれの奥さんは徒歩で。
生死不明の次男は数人で帰宅途中のところを、車で通りかかった近所の人に全員保護されており、その人に送られて。
中学生の長男は津波の被害を免れた学校から、歩いて帰って来ました。
長い一日が終わろうとする夕刻、それぞれの生死をかけた戦いから解放され、再び家族7人がそろいました。
外では雪が降り出していました。

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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