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【 追いつめられる福島の母親たち 「まだ何も終わってなどいません」】

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アメリカABCニュース 3月11日

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ちょっと想像してみてください。
目にも見えず、色も臭いもない物の恐怖から自宅を捨て、友人たちとも離れ離れになり、あなたの夫とすらも別れなければならない状況を。
それこそが巨大津波により原子力発電所がずたずたにされた後、福島を避難しなければならなくなった母親たちを見舞った運命なのです。

先週、こうした母親たちの2人から話を聞くことができました。

▽福島からの避難

2011年3月11日、マグニチュード9.0の東北太平洋沖地震が東日本を襲い、その30分後巨大な津波が沿岸地方に押し寄せ、逃げ遅れた20,000人の男性、女性、そして子供たちをのみこんでその命を奪いました。

津波警報が解除された後、人々はこの津波がもたらした誰も予測できなかった、本当の恐怖が始まってしまったことを思い知らされることになったのです。

最初の地震から数分間のうちに襲った余震により、千葉県の石備蓄基地で火災が発生するなど、無数の余震が日本の国土を襲いました。
仙台空港は水没してしまい、津波の被害に遭った人々は行方不明になった家族などの捜索に懸命になっていました。
そして福島第一原子力発 所の爆発のニュースが日本国内はおろか、世界中を恐怖に陥れました。
そして今日に至ってもなお、この事故の状況は極めて深刻なままです。

富塚ちあきさんは、福島第一原発から36マイル(約60km)の福島県内の場所で暮らしていました。
彼女はすでにチェルノブイリで起きている恐怖についての知識があったため、福島で放出された放射線の量はチェルノブイリの10分の1であるという日本国内の報道にもかかわらず、10歳の息子の健康を心配していました。
彼女と夫はただちに福島から脱出すべく準備を始めましたが、ことはそう簡単には運びませんでした。
「事故からしばらくたって、友人たちが子供を連れて続々と福島を出て行きました。でも私たち家族は脱出できずにいました。鉄道は打ち続く余震のため不通になっていましたし、自家用車にはほとんどガソリンが入っていなかったのです。」

地震と津波が襲った後、真っ先に欠乏したのがガソリンでした。人々は給 油を行うというガソリンスタンドに夜明け前から列を作って並びましたが、たちまちに売り切れとなり結局無駄足に終わる場合もありました。そしてまた次の日も、運さえよければ手に入るかもしれない、と列を作って順番待ちをしました。
冨塚さんは福島第一原発の爆発から11日後の3月23日、 やっと彼女の両親が住んでいる神奈川県まで行けるだけのガソリンを、自家用車に給油することができました。
そしてその日以来、冨塚さんは息子のゆりくんと一緒に横浜市内の借り上げ仮設住宅で暮らしています。
夫は仕事があるため福島県に留まることになりました。
「お父さんと会えないのはつらいです。」
息子のゆり君が語りました。
「でも脱出することは良い 決断だったと思っています。僕だって将来放射線のために病気になりたくはないし、長生きしたいし、それに両親を安心させてあげたいですから。」

しかし彼女が住んでいる借り上げ仮設住宅には、来年までしか住むことが許されていません。しかし冨塚さんは期限がきた後のことなど考えたくもない、と話します。
「今はまだそのことを考える余裕はありません。今のことだって手に余る状況ですから。この上将来のことまで心配し始めたら、本当に病気になってしまいます。」

彼女の唯一の心残りは、友人や近所の人たち、そして息子が通っていた学校の先生にちゃんとお別れの挨拶ができなかったことでした。
恐怖と故郷を捨てるという罪悪感がないまぜになりながらも、それでも冨塚さんは正しい決断をした、と思っています。


▽避難区域は、必要なだけの広さ設定されたのか

春になると美しい花を咲かせる桜の樹木が至る所にあり、美しい景観にあふれた福島県。
しかし今やフクシマという言葉は、放射線の危険性の代名詞となってしまいました。
事故を起こした福島第一原子力発電所は1945年に広島に投下された原爆の168倍にのぼる放射線をまき散らし、原子力事故に関する国際基準において、これ以上ひどい事故は無い、という最高のレベル7に分類されました。

日本政府は原発の周囲半径20kmの幅で「避難区域」を設定し、80,000人が避難するよう命令されました。この半径内に含まれた市町村は無人のままゴーストタウンと化し、時間が止まってしまいました。
誰もいない通りで信号が点滅を続けています。コインランドリーの店内には半分取り出された洗濯物が、かごの中に残っていました。
生活の兆候は全く感じられません。

▽ 避難した人々は何十年も帰郷できない可能性があります。

避難区域のすぐ外側に住んでいた人々は、避難区域の外側なら安全だという政府の見解に誠実さは感じられない、として信用していません。
確かに放射線量は下がってきていますが、それが誰にとっても安全な数値なのかどうかはわからない、と話しています。
政府による助成、あるいは 福島第一原発を運営してきた東京電力の補償が無ければ、彼らがこの地を去るのは無理だと語っています。

若い家族は彼らの子供たちが高レベルの放射能にさらされ続けることを恐れる一方、家のローンやその他の借金のためこの地に縛られています。
もはや彼らが住んでいた家は売り物にはなりません。
そして移住先での仕事が保障されなければ、とてものこと出ていくことはかなわないのです。

避難を命じられた人々は、毎月東京電力から金銭補償を受けています。
しかし自らこの地から避難することを決断した人々には、ほとんど補償はありません。
東京電力は一回限りを条件に子供たちと妊産婦には一人400,000円、その他の大人には一人当たり80,000円の補償を支払うと表明しました。

▽ 1年が過ぎて

先週の水曜日、冨塚ちあきさんと彼女の息子のゆり君、深川けいこさんと彼女の息子のかいせい君 – いずれも福島県からの避難者 - が、 女性の地位に関する第56国連委員会と連携して開催された、東京に本拠を置く非政府組織[ヒューマンライツ・ナウ]が主催するフォーラムで、自分たちの健康上の懸念について話しました。

原子炉が爆発したとき、深川さんは福島県郡山市に住んでいました。
冨塚さんは2人の幼い子供、4歳と7歳の幼い子供たちを連れて自発的に避難をしましたが、2011年6月にこうした母親たちが集まり、『福島 避難母子の会』という市民グループを設立しました。

この組織は、若い母親たちが自分たちの子供たちに将来起こり得る危険性について、素直にその不安を口にできる場を提供し、いまだに残っている放射線の危険性を 訴え、原子力業界への抵抗を示すためのデモ行進や座り込みなどの運動を組織しています。

今回の福島第一原発の事故が起きる以前、自分の故郷について考える機会というものはあったか、と尋ねてみました。
「巨大地震が襲い、何もかもが津波にさらわれてしまうのを目の当たりにして、私自身が持っていた物欲のようなものはきれいさっぱり無くなりました。私は今、生きてここにいられることに感謝する気持ちで一杯です。」
深川さんはこう答えました。

冨塚さんと深川さんは子供たちをそばに置きながら、福島第一原発がまき散らした放射性物質は、いまだに多くの人々の生活を脅かし続けている、その事の証人として話をしているのです。

「福島第一原発の爆発から1年が経ちましたが、まだ何も終わってなどいないのです。どうか私たちの存在を忘れないようにしてください。」
冨塚さんが最後にこう締めくくりました。

http://abcnews.go.com/International/evacuating-fukushima-earthquake-tsunami/story?id=15890249

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今日、福島県楢葉町にご自宅がある、という方からメッセージをいただきました。
実家が福島県大熊町にあり、家業ができなくなったために収入が途絶え、一家離散状態になってしまった知り合いもいます。
福島第一原発の周囲では数限りない悲劇が生まれ、人々を打ちのめしています。
もし自分がその立場だったら、そう考えたとき呆然となる他はありません。

福島の北にある私が暮らす宮城県では、福島第一原発の直接的な影響はより少なく、津波による被害からの立ち直りの問題が深刻でした。
しかしここに来て放射能汚染の問題のあるなしが、今後の行方を大きく左右する局面に入ってきました。
たとえば漁業。
3.11の 巨大津波は宮城県内のほとんどの港湾施設を破壊してしまいました。
すべての設備を元通りにすることはあきらめ、重要拠点を中心に復旧を進めることになりそうです。
しかし、収穫した魚介類に放射性物質による汚染の懸念がある場所では、インフラを整備したところで、肝心の商品価値は失われてしまっています。
いくら獲っても売れる見込みは無く、大汗をかいて、放射能汚染があるため処分にも困るごみの山を築くようなものです。

犠牲者の方々のことを別にすれば、津波はインフラを根こそぎ破壊しましたが、漁業という産業そのものは破壊しませんでした。
港が整備され、漁師の方が船を手に入れれば、その地の漁業の復活を始めることができます。
しかし、放射能汚染は何もかも、徹底的にだめにしてしまいました。
漁業従事者はおろか、たとえば
「日本人がカルシウムを摂取するのには、牛乳を飲むより小魚をたくさん食べた方が体に良い。」
という食文化も、被災地周辺では
「小魚を食べればセシウムなどの放射性物質を体に取り込む懸念があるから、外国製のカルシウム・タブレットで補った方が良い。」
とほとんど潰えてしまいました。
[http://kobajun.biz/?p=1760] でご紹介したエコノミスト誌の記事にあった
「原子力発電所は事故を起こせば人々の生活、人生、地域社会を破壊し、その生存を脅かし、その地に根ざした産業も根こそぎだめにしてしまい、国土までも汚染する」
その通りのことが起きてしまいました。

電気を作るための方法は原子力しか無いのですか?

ところで、この【星の金貨】をご覧いただいている方から
「取り上げている題材ごとに過去の掲載記事を分類し、分類した項目ごとに見出しを整理してほしい」
というご意見をいただきました。
私もその必要性は痛感しております。
何せ私自身どの記事がどこにあるか、探し出せるのはせいぜい最近の2週間程度までなのですから。
メインの記事ならまだしも、同じ日に第2、第3部として掲載した記事は、はじめから探すのはあきらめています。
が、食べていくため翻訳とは全く関係のない『生業』をこなしながら、記事探しから翻訳、校正まで一人(その先はもう一人スタッフがいます)でやっているので、その時間を取ることができません。
しかし、もともとこの【星の金貨】の目的の一つに、脱原発を目指す方々がいつでも自信を持って議論ができるよう、そのための資料を積み重ねるというものがありました。
である以上、分類による整理整頓は是が非にも必要です。

いつか必ず整理しますので、使いにくい点について、しばらくの間ご容赦ください。

【 少なくとも10年間は、人が住めない程の放射能汚染が続く – 福島の市町村 】

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アメリカCBSニュース 4月23日


〈写真〉福島第一原子力発電所近くの避難区域の放射線レベルを測定するボランティア(2012年3月12日)

日本では1万6000人以上の命を奪った2011年3月11日の巨大地震と津波の後のがれきの撤去作業と放射能の除染作業が続いています。
その中で明らかなことはたったひとつ。
福島第一原発では大きな誤りがあり、その結果周辺の住民が今後数十年間苦しみ続けなければならない、という事です。

ジャパンタイムズに掲載された最新の政府の報告書によれば、福島県内のいくつかの市町村の一部では、少なくとも2022年まで空間放射線量が人が住むことが不可能な高い値のまま推移することになります。
福島第一原発に最も近い場所では一年あたりの被ばく線量は50ミリシーベルトに達し、数千人がかつて住んでいた場所には戻れないという状況を作り出す、と複数の政府高官が語っています。
またアルジャジーラの報道によれば、避難区域に指定された7つの自治体のうち6市町村で、今後10年間の放射線量が危険な値が続くと予想されます。

この問題に加え、無秩序にだらだらと続く除染作業について、地元の人々は繰り返し報道機関に不満を訴えています。
「すでに一年が経ちましたが、何も改善されていません。」
61歳の地元の有機栽培農家、狩野むねおさんがアルジャジーラに訴えました。

CBSニュースの特派員ルーシー・クラフトは4月初め、福島県の土壌の多くがすでにひどく汚染されていることを報告し、椎茸栽培のような有名な特産品は台無しにされてしまいました。(動画はクラフト特派員のこの点についての報告です)
「私たちが一番悩んでいるのは、これからどうやって暮らしていけばいいのか、という事です。」
44歳のキノコ栽培農家の佐久間しんいちさんがCBSニュースに語りました。

福島第一原発を運営する東京電力は、これらのほとんどの責任を取らなければなりません。

津波が襲ったとき、福島第一原発は設計上許される以上の量のウラン燃料を抱え込んでおり、この原子力発電所では10年以上に渡り、定められた安全のための点検がいくつも行われずに来た、とロイター通信が伝えました。
それに加え、突如襲った津波の被害に対し、同発電所の職員が行った対応により事故が一層深刻なものになった可能性があり、調査を受けることになりました。

東京電力は、地元の農民に補償金を支払いましたが、農民たちの暮らしや仕事は破壊されたままであり、補償金はたちまちのうちに無くなってしまいます。
「政府は万全の態勢を取って対応に当たっている、なんて言っていますが、実際には何にもしてくれません。全部自分たちでしなければならないのです。」
地元で農家を営む佐久間さんがCBSニュースに語りました。

今回の大事故に対する日本政府の対応については、実に多くの 点について批判されていますが、一部の人が指摘するのは、被災地にいる人々の方が危機が及んでいる範囲を実際に把握している、という点についてです。
しばらくの間日本人は、これ以上の原子力災害の発生を心配しなくて良いかもしれません。
なぜならグリーンピース・インターナショナルによれば、安全性と保守点検の問題に対する懸念から、国内に54基ある原子炉のうち、1基を除くすべてが停止しており、残る一基も5月初旬に定期点検のため停止することになります。
この夏日本は1966年以来初めて、原子力 - 核の無い夏を体験することになりそうです。

http://www.cbsnews.com/8301-503543_162-57419529-503543/some-japanese-towns-to-stay-dangerously-radioactive-for-at-least-a-decade/?tag=cbsContent;cbsCarousel

【 菅前首相、英国メディアに福島第一原発の事故対応について激白 】

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世界が破滅に向かうのを止めたのは?!

デビッド・マクニール / ザ・インデペンダント(英国)4月23日

日本のかつての内閣総理大臣は、福島で発生した大事故の処理を誤ったと揶揄され続けてきました。
しかし今、その見方が変わり始めています。
彼自身が初めて、当時の状況を明らかにしました。

それはまるで口から放射能光線を吐いて破壊の限りを尽くし、核攻撃兵器の架空の象徴であったゴジラの破壊の後のようでした。
世界で最も多くの人口を抱える大都市が、制御不能となった原子力発電所が噴き上げた死の灰の脅威にさらされることになったのです。
しかしそれは250km離れた福島第一原発の三基の原子炉のメルトダウンにより、3,500万人の人口を抱える東京で実際に起きた出来事でした
そして多くの意味において、首都で起きた第二次世界大戦以来最も緊迫したこのドラマの主人公は、当時の内閣総理大臣菅直人でした。

当時の事故対応について広く批判を浴びた菅前首相ですが、しかしながら事故が起た後、東京電力が6基の原子炉と恐ろしい規模の殺戮と汚染を起こす可能性があった7つの使用済み核燃料プールを放棄しようとした際、これを許さなかった点においては高い評価を得ています。

「それがどういう意味を持つ決断であったかは後世の評価を待つ他ありませんが、私は総理大臣としてできる限りことは行ったはずです。」
一年前の原子力発電所事故を振り返りながら、菅前首相が辞任後初めて英国の新聞に明らかにしました。

菅前首相が当時一番恐れていたことは、当時の枝野官房長官が口にした『悪魔の連鎖反応』、すなわち福島第一原発のいたるところで次々とメルトダウンが発生する事態でした。
「もしこうした事態になれば、首都も壊滅せざるを得ませんでした。」
枝野元官房長官は今年始め、当時を振り返りこう述懐しました。
菅前首相自身は福島第一原発の事故が完全に対応不能になれば、東京は誰も住むことのできない廃墟になってしまう、という強迫観念に苛まれていました。
「そうなれば東日本全域が壊滅的被害を受けていたでしょう。」

カギになる瞬間は東日本大震災が発生した3月11日の4日後、3月15日にやって来ました。
菅前首相が東京の中心にある首相公邸で仮眠から目覚め、疲れ切った体をしわくちゃの緊急時作業服で包んだ彼は、当時の海江田経済産業大臣から、驚くべき報告を受けました。

『東京電力の職員と700人の作業員が、福島第一原発を放棄して避難する準備に入った。』

菅前首相は直ちに運転手に、1キロほど離れた場所にある東京電力本社に彼を連れていくよう命じました。
彼が背を丸めて東京電力本社の会議室に突然入っていくと、そこには約200人の人間であふれかえっていました。
「一体全体何でこんなところが人であふれかえっているのだ?!」
彼は思わず大声を出しました。
「緊急時の重要な決定は、5、6人で行うべきだ。」
彼の怒りの矛先は東京電力の勝俣会長と、居並ぶ取締役たちに向かいました。

『どんなことがあっても』、職員や作業員を福島第一原発から下げることは許されない。
『このまま福島第一原発を放棄すれば、この大災害はチェルノブイリの2倍、3倍の巨大災害になってしまう。』
彼は1986年に発生したウクライナの原発事故を引き合に出しました。
60歳以上の作業員を福島第一原発に向かわせるべきだ、と彼は主張しました。
「私自身60歳を超えていますが、ガンが発生するまでは20年から30年かかると言われていますので、その年齢なら関係ないと思ったのです。」
菅前首相がこう語りました。そして以下のようにつけ加えました。
『自分自身も福島第一原発に行かなければならないのなら、喜んで現場に向かう。この大災害はもはや日本だけにとどまらず、世界に被害を及ぼす規模のものなのだ。』

東京電力の経営陣と火花を散らし、疲れ切った菅前首相は会議室を後にしました。
しばらくしてそこでは、福島第一原発の完全放棄を前提にしたすべての案が否決されました。
後になって東京電力の武藤副社長は、私たちは『一部の職員』を撤退させようとしていただけなのだ、と語りました。

今日、菅前首相がこう語りました。
「原子炉一号機が3月12日に爆発しました。3号機は14日。そして2号機も大変危険な状態でした。このような状況では、誰もがもはや放棄する以外にない、と考えても不思議では無かったかもしれません。」
「しかし、そんなことは許されないのです。化学プラントならば、そこにあるものが燃え尽きてしまえば、事態は収束に向かいます。しかし、原子力発電所ではそうはいきません。火災がおさまれば、その後は事故処理もやりやすくなるというわけにはいかないのです。」

この点に関する菅前首相の対応についての評価が3月に行われました。
大半を大学教授、ジャーナリスト、法律家が占める30人からなる福島原発事故独立検証委員会が6カ月を費やした調査の末、委員長で弁護士の塩崎彰久氏が、今回の危機に対する政府の対応全体に対し、
「未熟で、場当たり的、ただし運には恵まれていた」
と結論づけたのです。
『事故前からこのような事態を予測していた者はいなかった。一握りのわずかな政治家だけがパニックと相互不信に陥ることを免れたが、この事故に関する技術的問題に関わる度合いが増すことになった。
しかしこうした政治的介入が功を奏することは無く、かえって混乱を引き起こし、この場合においては時に危機的状況すら生むことになった。』
菅前首相が東京電力に立ち向かい、その全面撤退を阻止した点だけは重要であったと評価されています。
『もし全面撤退が実際に行われていれば、福島第一原発の事故全体が、全く手のつけられないことになっていただろう。』
報告書にはこう記載されています。

菅前首相自身が関わり、事故後一週間の状況をまとめた報告書は、上記報告書から2週遅れて明らかにされました。
この中で菅前首相は福島第一原発が完全に対応不能となり、同原発の半径250km圏内の全員に避難命令、あるいは避難勧告を発する事態を恐れていた、と語っています。
こうした事実があったことは、2012年になるまで明らかにされませんでした。
「それは事態が、それ以上悪化しなかったことを証明するものです。」
菅前首相が語りました。
「私たちは3月15日から17日の間、この見えない敵に瀬戸際まで追いつめられました。しかし、その後少しずつ反撃していったので す。」

菅前首相は今後さらに14基の原子炉を建設する、という計画を廃棄させた後、8月に辞任しました。
この背景には以下のような憶測があります。

政治的に強大な力を持つ日本の原子力産業界と、保守的な報道機関が、彼に『制裁を加える』ためにやめさせたのだ と。

菅氏の後継者である野田佳彦はうだるように暑い夏が訪れる前に、現在停止中の原子力発電所を再稼働させることを約束しています。
一か所を除き、現在日本のすべての原子炉は福島第一原発の事故を受け、停止しています。

現在日本の経済産業大臣である枝野氏は今週、北海道電力が定期点検のために北海道泊原子力発電所発電所の3号機が停止する5月5日以降、当面日本での原子力発電量がゼロになると語りました。

菅前首相は昨年事故を起こした福島第一原発では、今でも危険な状態が続いており、そのことを彼自身は非常に心配している、と語りました。
「一年が経過した現在も、現場が一体どうなっているのか、具体的なことがわかっていません。」
菅前首相がこう語りました。
3メートルから6メートルの高さまではある、そう予測していた原子炉2号機内の水量が、実際には60cmしかないことを先月東京電力が確認しました。

菅前首相は、福島第一原発は冷温停止していると言える状態には無い、と語りました。

▽ 活動家から首相へ : 菅直人の台頭

1947年生まれ、菅直人は民主党の創設者のひとりだった。
2010年には民主党が選挙で自民党に地滑り的勝利を収めた後約半年で、不人気の鳩山由紀夫から職を引き継ぎ、この3年間で5人目の首相になりました。

しかし間もなく襲った東日本大震災の巨大地震と巨大津波が引き起こした福島第一原発の事故への対応を批判され、一年足らずで首相の座を離れなければなりませんでした。
東京工業大学の大学院卒業後、菅前首相は市民活動家として政治家としての道を歩み始め、最終的にこの島国の首相に就任するまでに、3回の閣僚就任経験を持っていました。

http://www.independent.co.uk/news/world/asia/naoto-kan-the-man-who-says-he-saved-the-world-7669097.html
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『原子力発電で明るい未来』『原子力発電は安全』などと言っていた東京電力が、一時は事故を起こしている福島第一原発を全面放棄しようとしたことを、私たち日本人は忘れないようにしなければなりません。
当時被災地であった私が住んでいる仙台市では、3.11当日に襲った津波についても、折からの停電で詳しい状況は分かっていませんでした。

そして福島第一原発で起きた爆発についても、情報は途切れ途切れに断片としか入っていませんでした。
こちらでは沿岸の市町村で数千人の行方が分からなくなっており、まずはそのことをなんとかしなければならなかったのです。
津波が襲った現場では人々ががれきをかき分け、あちこち走り回りながら、半狂乱になって肉親や同僚などの姿を探し求めていたのです。
そのとき本当に『福島第一原発の全面放棄』などされていたら、いったいどれだけの人がとんなことになってしまったか、想像もできません。
今回、英国のザ・インデペンダント(英国)がこの『事実』を取り上げてくれたおかげで、『この有り様』が世界中に伝わっていくことになるでしょう。

そして現在「そんなに原発が嫌なら、ろうそくを灯して暮らせ。」
と言っている人間が枢要な位置を占める政府が、今後の日本の行方を決定しようとしています。
この異常さに危機感を持たない訳には行きません。
まさに危機は『終わってなどいない』のです。

ところで菅首相が辞任を迫られていた 2011年の夏前、被災地で暮らす自分は「辞任させられて当然」と思っていました。
しかし、その後世界各国のニュースを毎日翻訳しながら読んでいるうちに、脱原発、反原発の流れから言えば菅前首相の辞任は決してプラスに ならないのではないか?
と考えるようになりました。
そしてドイチェ・べレ(ドイツ国際放送)などのニュースを何本か翻訳するうち、菅前首相の辞任の流れを作ったのは日本の原子力業界ではな かったか、という疑いは濃厚になりました。
「このまま菅を首相の座に座らせておいては、世論の後押しを受け、脱原発の流れが決定的になる」
そうした危機感を持った原子力業界がメディアを使って別の世論を作り出し、菅前首相の辞任を実現させた。

私たち国民は見事に利用されてしまったのかもしれません。
その思いは、現首相の発言・行動を見ていると増々深いものになります。
「次に来る者が、今の人物よりも良いという保証はどこにもない。」
そんなことは、サラリーマン社会を生きてきた私たちは百も承知だったのに…

そして世界の世論が『おかしいだろう!』と非難しているのもこの点なのです。
事故の原因を作った原子力安全保安院や東京電力が『制裁』を受けず、原子力発電の廃止を訴えた菅前首相が『制裁』される日本という国。
私たちはこの指摘に対してどう答えればいいのでしょうか?

もう一つの話題は、核家族。
日本のテレビ・新聞が取り上げる子供の虐待。
その家庭がもし父母だけではなく、何世代かが一緒に暮らすおじいちゃん・おばあちゃんがいるところなら、その分母親の育児ノイローゼなども少なければ、子供たちも救われたのではないか、と考えたことが何度もありました。

核家族は産業維持に大きな価値を置く社会にあっては、都合の良い家族構成でした。
しかし、親にとっても子供にとって心理的な部分での負担は重く、現代にいたって大量の孤独死を生む原因にもなっています。
ひとつの尺度ですべてを結論づけることはできませんが、先進国社会で今再び大家族に戻ろうとする動きがあることは、人々が「何事か」に気づき始めた証拠であるのかもしれません。

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【『核家族化』が否定される時代がやって来た 】

アメリカNBCニュース 4月22日

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子どもたちを育てるための素晴らしい方法が、毎日のように新たに発見されているようです。
今回は尊敬すべきおじいちゃん・おばあちゃんたちが、新たに生を受けた赤ちゃんに彼らの優れた体験を伝えるべく腰を上げました。
NBC放送のケビン・ティブルズがお伝えいたします。

「そろそろお目覚め?いいわよ、可愛らしいお嬢ちゃん!」

レポーター:赤ちゃんのソフィアは生まれて一週間を過ぎたばかり、そして祖母のアンは初めての孫を前におばあちゃんとしての彼女の新しい役割を愛しています。

「私はこうしているときが一番幸せ。」

アン自身が子供を産んだのはもう30年以上も前。
そしてソフィアが生まれる以前、息子のマークとその妻デニス がシアトルのスウェーデン医療センターで『新しいお父さん・お母さんのための教室』に通っている間、アンも子育てに参加する決心をし ましたそして彼女自身のスキルを磨くため、『新しいおじいちゃん・おばあちやんのための教室』に通ったのです。
「ここで祖父母としての資質を磨くのです。」
「30年前に私たちが経験した育児方法より、今はもっと優れたノウハウがあるのよ。」

レポーター : 新しく祖父母になる人々が、赤ちゃんのくるみ方について教習を受けています。」

「こうして赤ちゃんの肩まできちんとくるむのです。」

レポーター:赤ちゃんに必要な栄養の問題から、昼寝の時間に至るまで。

「私が子供を育てたていた時分にはドクター・スポックの育児書ぐらいしかなかったのよ。」

レポーター:物事は確実に進歩しています。
おじいちゃん、おばあちゃんのためのTIPS、それは以下のようなものです。
ベビーベッドの中に大きなものを置いてはいけません。
おもちゃや携帯電話もだめ。
寝かせるときは背中を下にします。
ベッドの中でうつぶせにして、ハイハイの練習をさせてはいけません。
これでマークとデニス、そしてソフィアも、おばあちゃんの育児にいつも最高の評価を与えることになるでしょう。

「妊娠中からすでに、こうしたアンおばあちゃんの準備は始まっていました。」
「彼女はずっと孫の誕生を待ちわびていたのです。」

レポーター : そしていよいよアンが磨き上げられた祖母の役割を果たす時がやって来ました。
「さあ、ひとつひとつをもっとレベルアップしていくわよ。お人形を使って練習を重ねてきたけど、これからはこの可愛らしい小さなかわいい命を大切に守っていかなければならないわ。」

レポーター : 新しいおばあちゃんのアンが最新式の育児法を身に着ける一方、デニスの父エリック・チャンは彼の母国台湾の伝統の習慣や伝統料理を、新米の母親である娘に伝えようとしています。
彼はまた、孫のために子守唄を歌って聞かせます。

レポーター:足りないところを補い合い、睡眠不足に陥りがちの新しい両親を手助けするために何でもこなしています。
「両方の 祖父母が赤ちゃんと一緒に時間を過ごすことができ、本当に幸せです。孫に対する愛情も深まるばかりです。」

「だからと言って溺愛するだけのおばあちゃんにはなりませんよね?」
「だれが?私?」
レポー ター : もちろん彼女が、です。
「さあ、出かけるわよ。」

レポーター : 彼女がこの点に関する知識も、最新のものに持ち替えているのはもちろんです。
ケビン・ティブルズ、NBCニュース、シアトル。

インド長距離核ミサイル / コロンバン高校銃乱射事件 13回忌/ メキシコ湾重油流出事故から2年

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ディスカバリー&スミソニアン博物館 / 巨大な太陽の爆発 / 巨大輸送機C-5】

アメリカCNNスチューデント・ニュース 4月20日

▽インド長距離核ミサイルの発射実験に成功

二つのロケット発射実験が行われましたが、世界の反応はなぜこうも違うのでしょうか?
先週、北朝鮮の実験が失敗に終わりました。
昨日はインドが長距離ミサイルの発射実験に成功しました。国連を含めた各国は北朝鮮の実験については、口を揃えて避難しました。
しかし今回のインドの実験については、中国からやや控えめの避難はありましたが、各国はほとんどこの問題を取り上げませんでした。
この違いはなぜ?

インドは米国の同盟国であり、そして国際社会でも北朝鮮より遥かに高い評価を得ています。
ジム·クランシーがインドの実験について、詳しく教えてくれます。

ジム・クランシー、CNN特派員
アグニ5号ミサイルは19日木曜日早朝、インドの東海岸沖合の島から打ち上げられ、雲の間を突抜け実験を成功させました。
アグニとはヒンディー語で『炎』の意味ですが、このミサイルは1トンの重量の核弾頭を搭載することができ、射程の長さは5,000キロメートルあります。北京を含む中国国内の主要都市のすべてを射程内におさめることができるのです。

インドのマンモハン・シン首相は、重要な第一歩だと語りました。

今回のアグニ5号ミサイル打ち上げの成功は、インドの科学技術分野に対し国家が適切な貢献を行ったことを象徴するものだ、と語りました。

今回の打ち上げについてインド政府は事前に広報していましたが、これといった批判は起きませんでした。
一方北朝鮮は打ち上げに失敗したにもかかわらず、厳しい批判にさらされました。
この成功により、インドは国際社会で一定の影響力を持つことになります。

国連の常任理事国である英国、フランス、中国、ロシア、そしてアメリカ合衆国、そしいイスラエルのような国も長距離ミサイルを保有していると見られています。
インドの指導層はこのミサイル開発は、飽くまで抑止力が目的である、と語っています。

インド防衛大臣パリアム・ラジョ「皆さんもご存知のように、インドには核武装した、あまり友好的ではない隣人がいます。そのため今回開発したような能力を持った兵器を保有することは、我が国の安全上重要な意味を持っています。」

クランシー:アナリストはこの隣人とは核兵器を保有している中国とパキスタンに他ならない、と語っています。
中国当局は今回の実験成功を把握していますが、両国関係にさほどの影響は無い、と見ています。

▽コロンバン高校銃乱射事件

アズーズ:13年前の今日、コロラド州リトルトンのコロンバン高校で悲劇的かつ衝撃的な出来事がありました。
2人の学生が銃と爆弾を学校に持ち込み、発砲しました。13人の生徒が死亡、23人が負傷しました。武装した2人の生徒はその後自ら命を絶ちました。

2007年に学校近くの公園でこのコロンバン高校の発砲事件の追悼式典が行われましたが、この事件がきっかけになり全米の学校では安全が最優先事項となり、こうした事件を二度と起こさないための教育プランなども導入されました。

▽メキシコ湾重油流出事故

2年前のこの日、メキシコ湾ディープウォーター・ホライゾンで重油流出事故が発生しました。
126名の職員が働いていましたが、爆発により11人が死亡しました。この爆発はアメリカ史上最悪の重油料出事故につながりました。200万ガロン(約800万リットル)の重油が湾内に流出し、一部はいったいの海岸に流れ着きました。
重油の流出を止めるまで85日間かかり、海底にある採掘弁を完全に閉じるまでには約4ヶ月を要しました。

▽パット・サミット、バスケットボール・コーチの辞任
(省略)

▽スペースシャトル・ディスカバリー

スペースシャトル・ディスカバリーが正式にスミソニアン博物館に収納されました。
昨日受け取りのための公式セレモニーが、アメリカ人初の宇宙飛行士であるジョン・グレンを初めかつてのアメリカの宇宙飛行士達が参加して開催され、ディスカバリーは新たな我が家に収まることになりました。
ジョン・グレン自身、ディスカバリーでの飛行経験があります。
彼はこの後のディスカバリーの役割について述べました。
ジョン・グレン「今日からディスカバリーは新たな任務に就くことになります。これまでのようにダイナミックでもないし、一見重要ではないように見えるかもしれません。展示されるということは、単に私たちの業績を公正に伝えるだけでなく、次の世代の人々のインスピレーションをかき立てることになるのです。」

▽巨大な太陽の爆発

アズーズ:今週私たちは太陽の表面で発生した、巨大なフレアについてお伝えしました。
しかし科学者は中規模な爆発にすぎない、と語っています。
これはどんな意味を持っているのでしょうか?
チャド・メイヤーが詳しくこの状況について、わかりやすく解説してくれます。

アメリカ気象協会、気象学者チャド・メイヤー:簡単にわかるように、色分けしたイメージを用意しました。
そして大きさについて、これが地球と同じ大きさに相当します。
爆発の炎が作り出したこの円内に、地球を20個入れることができます。これを見ても太陽がいかに巨大なものかわかります。そしてここに地球を置いてみることで、今回の爆発がいかに巨大なものか、おわかりいただけると思います。

▽今日のシャウトアウト

シャウトアウトの時間ですよ。これらの米軍航空機のうち、貨物輸送機はどれでしょうか?
答えがわかったら、大声で答えてください。
B-52、C-5、F-18、T-6さあどれでしょう、3秒以内に答えてください。

アルファベットの意味が答えです。 Cはカーゴ(貨物)の略で、ここで正しい答えはC-5です。

▽巨大輸送機C-5

アズーズ:C-5はただの貨物輸送機ではありませんよ。
C-5は世界最大の航空機というだけでなく、アメリカ陸軍のありとあらゆる装備を運べる飛行機なのです。
このまま私がこの飛行機がいかに巨大か話し続けても良いのですが、実際に中をその目で見てもらう方がはるかに良いと思います。

アメリカ気象協会、気象学者レイノルズ・ウルフ
ロビンス空軍基地にやってきました。これから信じられないものをご紹介しましょう。
アメリカの軍用機の中で最大のC-5です。右後方にタラップがあります。
では11段あるタラップを上って中に入りましょう。上ったところにフライトデッキがありますが、地上3階建ての高さがあります。
中に入るとその広さに驚かされます。
この中には戦車や装甲車はもちろん、他の航空機すら搭載可能です。分かりやすいように例を挙げると、サッカー場の約3分の2もの大きさがあるのです。

信じられないかもしれませんが、実はもう1フロアあるのです。
デッキ上にはたくさんの部屋があります。
この場所には75人の隊員達が座れる椅子を余裕を持って配置できるのです。

驚くのはその広さだけではありません。この操縦室には6人がゆったり座れます。
ここにいるライアン・ホワイト大佐もその一人。大佐、その他にC-5の際立った特徴を説明してください。

アメリカ空軍ライアン・ホワイト大佐
「あなたの言うようにまずは大きいのが一番の特徴です。
そして100マイル以上離れた場所にいる、あらゆる航空機と交信ができること。
そしてやっぱりなんと言っても大きさが一番です。世界で初めて空を飛んだライト兄弟の飛行機なら、このC-5の中を飛ぶことができるんです。

ウルフ「どうでしょう、C-5のクイック・ツアーは楽しめましたか?
ロビンズ空軍基地のC-5の中からCNNのレイノルズ・ウルフがお伝えしました。

(以下省略)

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【 皇帝ペンギンの生息数は南極に600,000羽 - 衛星による調査で確認 】

アメリカABCニュース 4月13日
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これまで考えられていたよりももっと多くの白と黒のかわいらしい鳥達が生息していることが、最新の衛星画像によって明らかになりました。

非常に高い分解能(VHR)の衛星画像を解析した結果、科学者たちは調査した地域に60万羽近い皇帝ペンギンが生息していることを突き止めました。
当初の予想では27万羽から35万羽と思われていましたが、南極にある44カ所のコロニーを調査し、上記の生息数を割り出しました。

英国南極調査隊、ミネソタ大学、スクリップス海洋学研究所、オーストラリア南極部門の科学者達は、衛星画像に写った動物、氷、影、ペンギンの糞などとペンギンを慎重に区別しながらその生息数を割り出したのです。
これらの調査機関によれば、今回の取り組みは『宇宙からの撮影によって行われた初の国勢調査』です。

以前は動物学者といえど、南極の寒さとペンギンの群れに与える心理的影響を考慮し、思うような調査ができませんでした。
しかしこの方法なら寒さはあまり関係ありませんし費用と時間が節約でき、ペンギン達を怖がらせずに正確な調査を行うことが可能です。

しかし今回の調査では気候変動が、鳥類にどのような影響を与えているかは明らかにできません。
「鳥類の生息数がどう変化していくのか、これから研究を続けていく際の基準を制定することになります。」
ミネソタ大学の南極地理センターの科学者であるミシェル・A.ラルーが、ABCニュースに語りました。
「南極海の氷が減って、ペンギンのコロニーの一つが消滅したことがわかっています。」
こう彼女が付け加えました。

画像をご覧いただくとわかりますが、ペンギンの白と黒の色は雪原の中で目立つため、コロニーの存在がはっきり確認できます。
残念ながら一羽一羽の姿まではとらえられませんが、『シーワールド・ペンギン・カム』のウェブサイトをご覧いただければ、いつでもリアルタイムでペンギン達の生態をご覧いただけます。

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ザ・バンドのリヴォン・ヘルム逝く…咽喉ガンで死去

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「最後までロビー・ロバートソンを許す事はできなかった…」

デイヴィッド・ブラウン / ローリング・ストーン紙 / アメリカNBCニュース 4月20日

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ザ・バンドの ヴォーカル担当、そしてドラマーのリヴォン・ヘルムが4月19日ニューヨークで咽 喉ガンのため亡くなりました。71歳でした。

「彼は友人たちやバンドの仲間たちに見守られながら19日の午後1時30分、安らかに息を引き取りました。」
長年リヴォン・ヘルムのバンドのギタリストをつとめたラリー・キャンベルがローリング・ストーン紙に語りました。
「そこには彼の友人全員が集まっていましたが、リヴォンは彼らが集まるのを待っていたかのようでした。友人たちが帰ったちょうど10分後、彼は私たちの目の前で静かに息を引き取りました。2日前にも一時危篤に陥ったのですが、その時は何とか持ちこたえたのです。彼は友人や仲間たちに、ちゃんとお別れを言いたかったのかもしれません。リヴォンは友人や仲間を愛していました。そして私たちも彼を愛していました。」

ザ・バンドの名曲の数々で印象的な歌声を披露したリヴォン・ヘルム、『オールド・デキシー・ダウン』『アップオン・クリップル・クリーク』『ラグ・ママ・ラ グ』、そして代表曲の『ザ・ウェイト』。
その彼は1990年代後半に咽喉ガンと診 断され、28回もの放射線治療を行いましたが、最終的に彼は再び歌えるようになっていました。
しかしここ数週間はニュージャージー州モントクレアや4月27日開催予定だったニュー オーリンズ・ジャズフェスティバルなどでの演奏予定など、複数の公演をキャンセルしていました。

彼の娘エイミーと妻サンディは17日火曜日、リヴォンのウェブサイトに以下のメッセージを掲載しました。
「今リヴォンは、ガンとの闘いの最終ステージに立っています。どうか彼のために祈ってあげてください。愛を贈ってあげてください。そうすれば彼はこの局面も何とか切り抜けることができると思います。彼の人生は音楽を愛する人々とファンのみなさんのおかげで、大変幸せな充実したものでした…。そして、レヴォンは何よりも演奏することが大好きでした。その場所を音楽で埋め尽くし、ビートに乗って誰もが踊れるように、ステージに上がるとき、リヴォンはいつもそのことを願っていました。」

1940年5月26日アーカンソー州で生まれたリヴォンは、文字通りロックンロールの誕生の場に居合わせることになりました。
ティーンエイジャーとして、彼はエルヴィス・プレスリー、リトル・リチャード、ジョニー・ キャッシュ、ジェリー・リー・ルイスのコンサートに出かけました。そしてジェリー・リー・ルイスのコンサートで見たドラマーのドラマー、 ジミー・ヴァン・イートンに触発され、ドラムを始めることにしたのでした。
もっとも彼はマンドリンやその他の弦楽器の演奏も得意になりました。

1960年に彼はロカビリーのロニー・ホーキンスのバックバンドに参加、このバンドはやがてロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、リック・ダンコ、ガース・ハドソンにドラマーとしてレヴォンを加えた5人組、ザ・バンドに発展していくことになります。

当時のバンド名は『クラッカーズ&レヴォン&ホークス』でしたが、その後ロニー・ホーキンスの下を離れました。
そしてこのバンドの実力に関する評判を聞きつけたボブ・ディランと出会うことになりました。
このバンドはカナダとアメリカのニュージャージーの両方で活動していましたが、彼らのス テージを見たボブ・ディランはリヴォンとロビー・ロバートソンに自分のエレクトリック・バンドに加わるよう勧誘しました。

リヴォンは当時を振り返り、1993年に回想録『火の車』の中に以下のように記しました。
「ボブ・ディランのことは、当時はよく知らなかった。彼のことはウディ・ガスリーを信奉するフォークソングのシンガー&ソングライターだと思っていた。」

ロバートソンとリヴォンは物議をかもし、盛大なブーイングを浴びたディランのニューヨークのフォレストヒルズ・テニス・スタジアムで行われたコンサートの際のエレクトリック・バンドのメンバーでした。
その後バンドの多くのメンバーは、ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』などで演奏し、1966年には彼と一緒にツアーを行いました(ただしディランのフォーク・ファンからの執拗な敵意にうんざりしたリヴォン・ヘルムだけは、1965年に一時脱退しています)
間もなく『ザ・バンド』として独立することになるメンバーとともに、ディランはオートバイ事故を起こした後のウッドストック・コンサートでのカムバック公演に臨みました。
この公演に参加する前、リヴォンたちは、後に彼らのスタイルになる、アメリカの伝統に根差す音楽の萌芽がみられる、画期的な 『地下室テープ』を制作していました。

やがてザ・バンドして彼らはキャピトルレコードと契約し、2枚の代表作となるアルバム『ミュージック・フロム・ビッグピン ク』(1968年)と『ザ・バンド』(1969年) をリリースしました。
ロバートソンは、バンドのメインのソングライターでしたが、リヴォン・ヘルムが一度聞いたら忘れられない魅力的なただみ声で歌うことにより、カナダ生まれのロバートソンの曲が見事なアメリカの伝統音楽として命を吹き込まれることになりました。
リヴォンはまた、ロック・ミュージックの世界で『歌う』ドラマーの先駆者の一人でもありました。

1976年、ロバートソンが提案し、『ザ・ラストワルツ』として有名な解散コンサートを行い、ザ・バンドは解散することになりました。
このコンサート以前にも、そして回想録『火の車』の中でも、解散には頑強に反対していたのがレヴォン・ヘルムだったのです。
「私はまた一人になのはいやだった。ザ・バンドを解散するなんて、とんでもない話だった。」
彼はしぶしぶ解散に応じましたが、以後ロバートソンとの関係は元通りにはなりませんでした。

一連の出来事の後、レヴォンは彼自身のバンド『リヴォン・ヘルム&RCOオー ルスターズ』を結成し、古くから仲間だったドクター・ジョン、スティーヴ・クロッパーやブッカー・T・ ジョーンズなどと共演、いくつかのソロアルバムを発表するなどしましたが、どうしてもザ・バンドへの未練を断ち切ることができませんでした。
そこで彼はリチャード・マニュエル、リック・ダンコ、ガース・ハドソンとともに、新生ザ・ バンドを再結成、1980年代初め3枚のアルバムをレコーディングしました。

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1986年にマヌエルが首つり自殺、その後もしばらく新生ザ・バンドの活動は続きましたが、1999年に心不全でリック・ダンコが死去、ここに至ってついにザ・バンドは永遠にその活動を終えることになりました。
この時点でリヴォン自身にも咽喉ガンが発症していました。
回復後リヴォンは彼の自宅の改装した納屋とウッドストックにあるスタジオで、『ミッドナイト・ランブル』と名付けた内輪のコンサートを行いましたが、これには彼自身の医療費を捻出する意味もありました。

目立たない、森の中のパフォーマンスでしたが、評判を聞きつけロック界の大物も集まるようになりました。エルヴィス・コステロ、ナタリー・マーチャント、グレイトフル・デッドのフィル・レッシュ、そしてドナルド・フェイゲンなども、リヴォンのバンドと共演を果たしました。

この『ミッドナイト・ランブル』は思わぬ成果を生むことになりました。
ここから生まれた2007年発表の 『ダート・ファーマー』は、『ベスト・トラディショナル・フォーク部門』でグラミー賞を受賞しました。
「『ミッドナイト・ランブル』をやってて本当に良かったよ。賞がもらえる程に声も出るようになったしね。」
2009年にレヴォンがローリング・ストーン紙のインタビューにこう答えています。

ザ・バンドは1994年にロックン ロールの殿堂入りを果たしましたが、レヴォンはロビー・ロバートソンとの確執がまだ解消されていないことを明らかにし、出席しませんでした。
数年後、ロビー・ロバートソンがローリング・ストーン紙にこう語りました。
「私はリヴォンが姿を見せるものと思っていました。あの晩誰かが、リヴォンが思い直して家に戻ってしまったと話していました。何てことだ、彼がいてくれたらどんなに良かったか。私はそう思いました。」

ヘルムの咽喉ガンは、彼の歌声から大切なものを奪い取ってしまいました。
ステージ上や最近のインタビューで、彼の声は力強くもありましたが、一方で低音の魅力は明らかに失われてしまっていました。
彼の最後となったステージのうちのひとつ、13人編成のバンドと一緒に行った3月19日 アナーバーのコンサートでザ・バンドの名曲『オフィーリア』を彼が歌った時は、聴衆の間にどよめきが起きました。
「私は健康増進運動のモデルにはなれそうにないよ。そんなに病状は悪くは無いんだが…。これからは曲作りに専念したいね、それをしている限りはとっても気分がいいからね。」
彼が昨年、ローリング・ストーン紙のインタビューにこう答えていました。+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

今日は【 母なる地球と父祖の土地 – 再び忍び寄るナチの足音〈後編〉 】をお送りする予定でしたが、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムが亡くなってしまった、というニュースが飛び込んできたたため、急遽こちらをお伝えすることにしました。

ザ・バンドの『ザ・ウェィト』が自分の青春時代の何事かを画した、そんな方が結構いらっしゃるのではないでしょうか。

私がそれこそ音楽にのめり込んだ1970年代は、まさにロック・ミュージックの全盛期でしたが、そのときこんな言い方がありました。
「ザ・バンドからピンク・フロイド(またはエマーソン、レイク&パーマー)まで」
ものすごく泥臭いアメリカン・ロックのザ・バンドから、ピンク・フロイドやエマーソン、レイク&パーマーのプログレッシヴ・ロックまで、ロック・ミュージックの幅広さを表現した言葉です。

その一方の雄がザ・バンドでした。
私自身は特別ザ・バンドのファンだった、という意識は無いのですが、ライブラリにはやはり4、5枚はアルバムがあります。

リヴォン・ヘルムの訃報に触れたとき、また改めて一つの時代の終わりを痛感しました。

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