one and only という英語は、最近では日本語のひとつになりつつあります。
「他に例を見ない、第一人者」をさす言葉ですが、アメリカNBCのナイトリー・ニュースは「脇役」と言っても良い、あるサックス奏者の死を追悼していました。
実はわたし自身にとっても、彼は脇役ではあっても、心に深く刻み込まれた存在であった事をこのニュースによって、改めて思い知らされたのです。
ニュースの中でキャスターのブライアン・ウィリアムズ氏は、下に訳したように、いつになく思い入れ深いコメントをしています。
それもそのはず、調べてみるとウィリアムズ氏は1959年生まれ、高校2年生ぐらいのときにブルース・スプリングスティーンのブレイクに出会っている事になります。
当時私は大学浪人生、自分の人生に対しても、世の中に対しても悶々としていました。
そんな時、ブルース・スプリングスティーンの「明日なき暴走(Born to Run)」のアルバムが発売されたのです。タイトル曲の中の体の中からしぼり出すような、叫ぶようなブルース・スプリングスティーンの歌と、悶々としているもの全てを切り裂くような、吹き飛ばすようなクラレンス・クレモンズのサックス演奏は、たちまちに私の心をとらえました。
知恵も力もお金も無く、ただ矛盾だけが見えるたくさんの10代後半から20代の若者が
「......今すぐ、この荒んだ都会から逃げ出さないと、俺たちまでだめになってしまう。」
という歌詞に共鳴したのではないでしょうか。
以来、ブルース・スプリングスティーンはアメリカの「顔」にまで上りつめましたが、日本の若いミュージシャン達にも大きな影響を与えました。
今日はそのクラレンス・クレモンズ追悼のニュースをご覧ください。
『昨日、私は、多くの他の人々と共にジャージー川の岸にたたずんでいました。
私たちはアズベリーパークで、子馬の石像に引き寄せられていきました。
まさしくEストリート・バンドと同じ名前の遊歩道、そしてバー。
昨日、人々は6月18日にこの世を去ったクラレンス・クレモンズを偲ぶために、それらの場所に集まったのです。
ブルース・スプリングスティーンの伴奏者として、サックス奏者として、そして友人として40年間彼を支え続けて来ました。
居合わせた多くの人々と一緒に、私は彼に捧げられた写真、キャンドル、そして花の写真を撮影して来ました。
偉大な音楽奏者の死によって、ステージで作られてきた数多くのすばらしい音楽の代わりに、悲しみと追悼の気持ちで心の中がいっぱいになった一日でした。
多くのロックバンドにはサックスプレーヤーはいません。ましてクラレンス・クレモンズのようなサックス奏者を擁するバンドは皆無です。
バンドの名前はブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドですが、その音楽はきわめて特徴のあるものでした。
真鍮のサキソフォン同様、輝くような彼の演奏はバンドの大きな売りであり、彼は真に偉大な演奏者でした。
彼らがデビューした1970年代にあっては、こうした演奏スタイルは珍しいものでした。
それは市民権運動時代のすぐ後にやって来ましたが、ブルース・スプリングスティーンが音楽シーンに躍り出てきたとき、私たちは時代が大きく動いた事を感じ取りました。
クラレンスの演奏はたちまち私たちの心をとらえました。
クラレンスがバンドに加入したことで、ブルース・スプリングスティーンの音楽も大きく変わりました。
彼は音楽シーンのひとつの象徴であり、その音楽は一度聴いたら忘れられないものでした。
クラレンスとブルースは固い絆で結ばれた兄弟のようであり、常々クラレンスはそれはかけがえの無い男同士の友情であると言っていました。
クラレンスとブルースは伝説にふさわしい存在でしたが、私たちが書いたり話したりしたりするよりも、ずっと偉大な存在であったのです。
彼にありがとうと言わせてください、そして本当に愛していたと。
彼はバージニア州ノーフォークの海産物業者の息子でした。彼は体格が大きく、ステージでも大きな存在でしたが、実際メリーランドで大学のアメリカン・フットボール選手として活躍していました。しかしクリーブランド・ブラウンズの選手としてNFLで活躍する直前、自動車事故でひざを痛めてしまい、管楽器奏者として身を立てる事を決意したのです。
そして父の日の日曜日、アズベリーパークに集まった多くの彼のファンたちが、彼の演奏を二度と聴けなくなってしまった事に思いをめぐらせていました。
男性「彼にはもう会えない、つらい事だよ」
女性「彼の死でひとつの伝説が終わってしまいました。」
撮影から36年が経った一枚の写真の中、「明日なき暴走(Born to Run)」のアルバムジャケットの写真で、ブルース・スプリングスティーンがクラレンス・クモンズに寄りかかっていますが、実際、彼に多くを負っていました。Eストリート・バンドにおける巨大な岩のような存在だったのです。
これから「ジャングルランド(ブルース・スプリングスティーンの曲のタイトル)」のような世界で私たちが生きてゆく時の支えを、私たちは何に求めれば良いのでしょうか?
簡単には割り切れない気持ちです。
ひとり一人のファンにとってもそうでしょう、偉大なサックス奏者クラレンス・クレモンズが69歳で逝ってしまった事は。
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クラシックの分野でも、フルトヴェングラー、ワルター、トスカニーニ(個人的には好きじゃありません)という、1950年代に亡くなった指揮者をしのぐ指揮者が50年経った今でも現れないように、ポピュラー音楽でもビートルズ、ローリング・ストーンズ、レッドツェッペリン、ピンクフロイドなど1960~70年代を中心に活躍したバンドを超えるミュージシャンが現れないように、ジャズの分野でも、トランペットのマイルス・デイヴィスとサックス(テナー、ソプラノ、アルト)のジョン・コルトレーン、それにピアノのビル・エヴァンス(私は個人的にはエロール・ガーナーの方が好みなのですが)を超えるジャズ・プレーヤーも現れてはいないようです。
なぜなんでしようね。
フルトヴェングラーやワルターの音楽が、きわめて深くなって行ったのは解るような気がします。本来まれに見る音楽的資質に恵まれた2人。彼らは5年以上の第二次世界大戦を経験させられ、ワルターはユダヤ人としてヨーロッパを追われ、フルトヴェングラーは戦後いわれなき『ナチ協力者(いわゆる三大指揮者の中で唯一ナチス時代のドイツに留まり指揮活動をしましたが、親ナチスではなかった、とする見方が一般的です)』としてのレッテルを貼られ、ともに深い精神的苦悩を味わいました。オーケストラの指揮者はその精神構造が如実に演奏に現れる、といわれており、常人ではあり得ない深い苦悩が、もともと他に抜きん出ていた二人の音楽性をさらなる高みへと導いた事は容易に想像できます。
さて、今日はジャズの方のお話です。
主人公の1人、マイルス・ディヴィスは1926年、アメリカで生まれましたが、父は歯科医であり、母は音楽教師、そして姉は正規の音楽教育を受けた人であり、黒人でありながら恵まれた環境に生まれ育ちました。
一方、コルトレーンですが、マイルスと同じ1926年生まれ、父親は洋服の仕立てとクリーニング業を営み、黒人としては中流階級に属していたと思われますが、母親の方はオペラ歌手を目指しカレッジで音楽と教育学を学んでいます。
どちらも自身が音楽を始めるには、十分以上の環境に恵まれていたと言えるでしょう。少なくとも「どん底から這い上がるため」音楽を志した訳ではなかったようです。
先に有名になったのはマイルスの方でしたが、マイルスのバンドに加入したコルトレーンも徐々に認められて行きます。
ごくごくおおざっぱな話になります。
コルトレーンがフリージャズに『転向』する直前の音は余韻があり、中毒になりそうな程きわめて深い音色を出しています。
一方のマイルスも弱音器をつけてからの音は、まったく無駄がなく、こちらは日本の禅やわび・さびに通じる無限の空間と言ったものを感じさせます。ウルサイ、と感じる音は絶対に出しません。
この後、コルトレーンはフリージャズに、マイルスはフュージョン、ファンク傾向へと音楽を変化させて行きます。
ただ、転向してからのコルトレーンの演奏というのは音楽をしている、というよりは道を究めようとする求道者のようになってしまいました。一人山に籠り、孤独な修行を続ける剣術使いや格闘家と変わらない世界に生きていたような印象があります。
「その場で感じる事をそのまま音にするのだ」と言って凄まじい気迫を込めた音を出し続け、やがて枯れるように40歳の若さで他界してしまいます。
後期の彼の演奏は調声もリズムも曖昧で、わたしのようなごくごく一般の音楽ファンからすると、ちょっとワカラナイ方向に行ってしまった観があります。
このワカラナイ、という部分だけを真似たセミプロ、アマチュアがやたらサックスをブカブカやって一時ワケノワカラナイ「ミュージシャン」が巷に大量発生したりしました。言わせていただきますが、ワカラナイとワケノワカラナイはまったく次元が違います。
一方のマイルスの音楽は、ジャズファンでなくとも充分に楽しめる、音楽の幅をどんどん広げて行きました。その広がり方も大衆化する、というよりは音楽として普遍化する、という展開を見せ、クラシック・ファンやロック・ファンなどの中にもリスナーが増え続け、晩年には単にジャズに留まらない、音楽界の巨人として「帝王」の名を奉られたりしました。
最後まで【音楽家】であろうとした、マイルス。
【求道者】になってしまったコルトレーン。
あなたはどちらに惹かれますか?
今日の動画はマイルスとコルトレーンの競演、マイルスの作品で今やジャズ・ナンバーの名曲中の名曲「So what ?(だから、何?という意味ですが)」の演奏をご覧ください。もっとも、この時点ではコルトレーンはマイルス・バンドの「一員」なので、それほどソロは長くありませんし、まだ、ワカラナイ方向にも行っていません。
ジャズはあまり聴いた事が無い、という方、この曲をお聴きいただいた後は、胸を張って
「オラ、ジャズなら知ってるもん。」
とおっしゃってくださいね。
人間の音楽嗜好というのは、幼児期の体験に大きく左右される、というのが私の持論です。
つまりは原体験というやつなんですが、一時期流行った『胎教』、今もされる方は多いのでしょうか?胎教で多く使われたのはモーツァルトだったようですが、『胎教』された子供たちはモーツァルト好きになったのでしょうか?
実は25年程前、我が家で娘が生まれた際、当時市販されて間もないCDのミニコンポを生まれたばかりの娘の周りにおき、静かな音でモーツァルトのピアノ協奏曲をずっとかけていました。
ピアニストのウラディミール・アシュケナージがピアノを弾きながらオーケストラも指揮するという、いわゆる「弾き振り」の演奏ですが、CD一枚が3,800円か3,500円の頃でした。
その娘はどうなったでしょうか?
携帯電話の着信音はいわゆるパンクロック。
部屋から聞こえてくるのは現在進行形のロックミュージックですが、モーツァルトが聞こえて来た事はありません。
ただひとつ、明らかなのは「音が外れていること」「たどたどしいピアノの音」などを、ものすごく嫌う、という事です。
その結果、今一番娘のカンに触るものはなんでしょうか?
私の鼻歌と、私のピアノの練習です。
さて、『風薫る五月』。
好みはいろいろあるでしょうが『一年で一番いい季節』候補の筆頭にあげられるでしょう。
こんな時、お薦めしたいのがアール・クルー(男性・アメリカ)の音楽です。
今でこそ、アコースティック楽器によるジャズやポップ・ミュージックは当たり前になりましたが、アコースティック・ギター、それもクラシック・ギターで非常に広がりのある、誰もが美しいと感じる音楽を聴かせてくれたのには、ちょっと大げさに言えば世界が驚きました。
先駆けてひとつの分野を切り開いたミュージシャンの1人です。
1980年代から2000年代あたりにかけて、テレビのいろいろな番組のBGMとして多用されていましたので、お聴きになれば「ああ、この音楽ね。」と聴き覚えのある曲がたくさんあると思います。
私のおすすめは『奥様は魔女』のテーマ曲で始まる
Earl Klugh Trio
そして3枚のCDを2枚組にまとめた
Dream Come True / Crazy For You / Low Ride
の2点。特に最初の2枚分が素晴らしい。
風薫る5月がさらにさわやかな、美しい季節に感じられますよ。
『病膏肓(やまいこうこう)に入る』ということわざがありますが、クラシック音楽が趣味、と言い切る人は大体もうこの段階に入っている人が多いと思います。
シューベルト交響曲第9番【ザ・グレート】。
作曲家のシューマンが「天国的に長大」と表現した、天国にいるような幸せな気持ちに浸っていられるこの曲を聴いている長い時間は、クラシック音楽ファンにとってはまさに至福の時です。次から次へと繰り出される魅力的なメロディの数々、どれをとってもすぐに口ずさめる程で、それが奔流のように流れ出すこの曲は音楽ファンのみならず、指揮者にも愛されています。フルトヴェングラー、B.ワルターを始め、夭折したケルテスやシノーポリまで、たくさんの「名演」が残されています。ただし、オーケストラ、特に弦楽パートにとっては「重労働」を強いられる曲のようで、楽団員には敬遠されがちだということを聞いた事があります。
シューベルトはベートーヴェンが元気で活躍している頃、「すねて」いた、と言われています。
曰く「ベートーヴェンのあとで、何が出来るだろう」「あらゆる分野で、ベートーヴェンは他の追随を許さない傑作を作り続けている。これでは自分が活躍する場が無いではないか?!」と。
ベートーヴェンばかりが脚光を浴びていることに反発しつつも、ベートーヴェンが不世出の作曲家であることを誰よりも理解していたことが解るエピソードです。
実際、交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノソナタなどにおいてベートーヴェンの作品の独創性と完成度の高さは群を抜いていました。後世の私たちが見れば、音楽はベートーヴェン「以前」と「以後」でまったく異ってしまっていることが解ります。ベートーヴェンの天才性は他の追随を許さないものでした。シューベルト自身(自分でそう思っていたかどうかはさておき)天才であったために、この辺のところはよく理解できたのだと思います。
このためにシューベルトとしては、ベートーヴェンがあまり作品を残さなかった声楽の分野に没頭したと言われています。よく知られる「野ばら」「菩提樹」を始め、声楽についてはシューベルトを外しては音楽史が成り立たない程、数多くの優れた作品を残したのです。
しかし、ベートーヴェンは死ぬ間際、人に頼んでシューベルトをわざわざ呼んでもらい「後のことを託せるのは、君以外にはいない。」と「遺言」します。
このことに感激したシューベルトは一念発起、交響曲【ザ・グレート】を一気呵成に仕上げた、と言われています。しかし、シューベルトは結局、ベートーヴェンの死の翌年にたった31歳で亡くなってしまいました。死因は腸チフス。
普段から売春宿に通いつめ、梅毒を患ったりしていたシューベルトの私生活は荒んでおり、その死とともにたくさんの作品が散逸してしまいました。その中にこの交響曲第9番【ザ・グレート】も含まれていました。