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【 選挙公約だけは派手に何でも – ただしその場限り?アベ戦術 】

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所要時間 約 8分

公約するだけなら、何を言うのも可能 - 人づくり革命、女性が輝く社会、働き方改革、何でも請け合えばよい – それがアベ方式の選挙戦術

政治的空白を生じさせることの無責任さ、そして加計学園・森友学園にまつわる一連の疑惑に対し有権者が持つ嫌悪感はどう作用する

 

竹本義文、梅川隆 / ロイター 2017年9月19日


教育と育児に重点的に予算を配分すること、北朝鮮に対し厳しい外交姿勢をとり続けること、そして平和主義憲法を改定することが、安倍晋三首相の翌月に予定椅されている選挙戦の公約の柱となる見通しです。

政権与党や政府関係者によれば、安倍首相は9月28日に臨時国会が開催の際に、内閣支持率の回復、野党が混乱している状況などを有利な材料として、衆議院の解散総選挙を検討しています。

 

7月に30%以下にまで低下した内閣支持率が回復したことを確認した安倍首相は、日本の軍組織の存在を明確に規定するため最低でも衆議院の過半数の維持を、できれば長年の目標としてきた憲法改定を発議するために必要な3分の2以上の議席の維持をめざし解散を決意しました。

安部首相がもしこの選挙で誰の目にも明らかな勝利を手にすることができれば、来年9月に予定されている自民党の総裁選挙で第3期目の任期を手に入れ、戦後日本の最長の任期を持つ首位になる可能性があります。

「それが安倍首相の最大の目標です。」

ベテランの独立系政治アナリストである森田実氏がこう語りました。

 

安倍首相の支持率は産経新聞・フジテレビの9月16〜17日の世論調査では6.5ポイント上昇し、50.3%となりました。

政党別支持率では自民党の支持率は38%、野党民進党の6.4%となっています。

情報筋によると安倍首相は消費税率を8%から10%に引き上げていくことで、「全世代に対する社会保障制度」の充実を図り、教育に投資しながら全額が公的負債の返済に充てられている消費税の、税収全体に占める割合を減少させる意向を持っています。

日本の社会福祉制度は高齢者への支出割合が極めて高く、最新の政府データによると日本の65歳以上の人口は全人口の27.7%という桁外れの高さになっています。

「公約するだけなら、何を言うのも可能です - より公平な社会の実現、女性が輝く社会、働き方改革、すべての世代に対する福祉の実現等々、何でも請け合えばよいのです。」

テンプル大学日本学部のアジア研究部門の責任者であるジェフリー・キングストン教授がこう語りました。

「それが安部首相が持っている、勝つための戦術なのです。」

 

しかし公的負債の削減のために投入される税金の額を減らすことは、2020年度の政府の基礎的財政収支の黒字化の達成を困難にし、財政規律が再び緩んでしまうことに対する懸念を高める可能性があります。
麻生太郎財務相は記者団の質問に対し、「財政規律を維持しなければならない。」と語りました。

安倍首相は記者団に対し、衆議院の解散総選挙を行うかどうかについては、9月22日に米国から帰国した後、決定を下すと述べました。

野党民進党は一桁台の支持率だけでなく、議員の一連の離脱にも苦しんでいます。
小池百合子東京都知事との関係を軸に結党の準備を進める国民ファーストの会が一定程度の票を獲得することは可能ですが、政策や綱領を起草したり、政党として正式に登録したり候補者を選んだりすることはできません。

政界のアナリストは、こうした状況を受け自民党と公明党の連立与党は、衆議院での3分の2の大多数の議席獲得を目指した候補者擁立に打って出るだろうとの見方を示しました。

 

一方でアナリストの一部は、北朝鮮の核開発・ミサイル計画に対する緊張感が高まっている中であえて政治的空白を生じさせることの無責任さ、そして加計学園・森友学園にまつわる一連の疑惑に対し有権者が持つ嫌悪感によって、安部首相の選挙基盤が大きく揺らぐ可能性もあると見ています。

ニューヨークにあるコロンビア大学で名誉教授を務めるゲリー・カーティス教授は次のように語りました。

「私は、有権者が驚くべき結果を突きつける可能性を否定しません。」

 

http://uk.reuters.com/article/uk-japan-politics/japans-abe-to-pledge-something-for-all-generations-in-snap-election-source-idUKKCN1BU0DA

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【 米国との『偶発的』核戦争の勃発を防いだソビエト軍将校、77歳で死去 】

ドイチェ・ヴェレ 2017年9月19日

旧ソ連軍の将校で「世界を救った人」と呼ばれていたスタニスラフ・ペトロフ氏が77歳で亡くなりました。

1983年に下された彼のわずかコンマ数秒の決断は、米ソ間の偶発的核戦争の勃発を防ぎました。

1983年9月、モスクワ近郊にあるその存在すら極秘のソビエト早期警戒施設でペトロフ氏が勤務中に、米国から大陸間弾道ミサイルが発射されたことを警告する警報が鳴り響きました。

44歳だったペトロフ中佐は、ソ連が実際に攻撃を受けているかどうかを数分以内に判断しなければなりませんでした。
ペトロフ中佐の選択肢の中には上官に対し、アメリカへの報復攻撃を命令するよう進言することも含まれていました。

しかしペトロフ中佐は警報は誤りであると判断し、上司に対しいかなる報告も行いませんでした。

 

http://www.dw.com/en/soviet-officer-who-averted-nuclear-war-with-us-dies-77/a-40589955

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その時その場所に誰が居たか、歴史はそれによって大きく変わってしまいます。

その意味で今回、この2つの記事を併せて掲載しました。

「あの時、あの人間の再選を許したがために、こんな日本になってしまった…」

そんなほぞをかむことにならないよう、罵倒したりけなしたりそれだけではなく、現実を変えるために自分が今できることを真剣に考える、そうありたいと思っています。

 

「ゴキブリ!」「ババア!」:故国を離れて暮らす韓国朝鮮人への執拗ないやがらせが続く日本《後編》

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所要時間 約 7分

人権という言葉がどんな意味も持たなかった時代に逆戻りしていく日本、黙認する安倍政権

心の中では金正恩(キム・ジョンウン)体制を非難していても、口に出すことができない北朝鮮国籍の住民たち

 

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2017年9月2日

韓国籍や北朝鮮国籍の人間であることがわかれば差別されたり悪罵を投げつけられる恐れがあることから、各国朝鮮国籍を持つ人々の多くが日常生活で日本人の名前を使用しています。
生まれてからずっと日本で暮らしてきた若い韓国朝鮮人でさえ、日本に対しては複雑な思いを抱くようになりました。

「私は日本で生まれて日本でで育ちました。私が最初に覚えた言葉は日本語ですが、心の中では自分を日本人だとは感じていません。」
大阪の小学生のこどもたちに朝鮮の文化と言葉を教えているリュウ・ユウジャさんがこう語りました。
「私は大学に進学するまで、自分の朝鮮のルーツについて真剣に考えたことはありませんでした。しかし学べば学ぶほど、自分が朝鮮(韓)民族としての受け継いだものの意義はますます重要になったのです。」

 

1950年に朝鮮戦争が勃発したのをきっかけに祖父の代に日本に避難移住した今年28歳の若い女性は、最近は両親が彼女につけてくれた日本名の優子よりも、韓国語の名前で自分を語ることを選択することが多くなりました。
他の多くの韓国人と同様、彼女も北朝鮮にも家族関係を持ち、韓国の旅券を持っています。
「もし私が北朝鮮のパスポートを持っていれば、差別され人種攻撃を受けることになるのはわかりきっています。」

大阪にある鶴橋地区には多くの朝鮮半島出身者が暮らしていますが、金正恩(キム・ジョンウン)によるミサイルの発射が日本の北朝鮮国籍住民のコミュニティにどのような影響を与える可能性があるか、おおっぴらに話をする人はほとんどいません。
「こちらには金正恩(キム・ジョンウン)政権を批判している人がいると聞いてはいますが、私的な会話でしかありません。私の周囲にいる人々は、 - ほとんどが本当の思いを口にすることを恐れているのです。」
地元の焼肉レストランで家族と一緒の時間を過ごしていたソン・ジョンミさんがこう語りました。

 

かつて大阪の北朝鮮学校に通い、普段は日本人の名前を名乗っている48歳の男性は、
「拉致事件について北朝鮮政府が公式に関与を認めた後、私は散々悪罵を投げつけられました。今は自分のこどもたちが学校の行き帰り、安全が確保されるかどうかいつも気に病んでいます。」

 

リーさんによれば1923年に発生した関東大震災で発生した朝鮮人労働者の虐殺事件の犠牲者に対し、新たに東京都知事として選出された小池百合子氏が哀悼の辞を贈ることを取りやめた決定を行ったという事実は、日本国内の韓国朝鮮人に対する感情が変わったことを証拠立てる出来事です。

1923年9月1日の関東大震災の後、朝鮮人労働者が暴動を起こし、略奪したり毒を流したりしているという根拠不明のうわさが流布され、凶悪な暴力集団が朝鮮系住民に襲いかかり、多数の死者がでました。


「当時の虐殺事件と今自分たちが受けている差別や攻撃について考えると」

いったんは裁判で勝訴したものの上級審に持ち込まれ係争が続く中、リーさんがこう語りました。

「日本は現在、人権という言葉がどんな意味も持たなかった時代に逆戻りしているように感じます。 そして現在の政権はその事について何とも思っていない、そう感じるのです。」

 

https://www.theguardian.com/world/2017/sep/02/cockroaches-and-old-hags-hounding-of-the-north-korean-diaspora-in-japan

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人種差別に対して湧き上がる嫌悪感・不快感というものは、一種独特のものです。

確かに江戸時代の朝鮮通信使の記録などを見ても、朝鮮半島の人びとが日本人に対し好感を持ったという話はあまり聞きません。

また従軍慰安婦像の設置など、その執拗さに少々辟易することもあります。

しかしそれについては豊臣秀吉の朝鮮出兵や1910年の韓国併合など、『された側』の感情を『した側』が理解するのはなかなか難しいのだろうな、と感じる程度の話です。

 

さらには戦後日本が奇跡的な復興をとげた背景に、1950年に勃発した朝鮮戦争『特需』があったことは否定しようのない事実です。

こうした事実についても、朝鮮半島の人びとが日本に複雑な思いを持つ一因になっているのかもしれません。

歴史というものには様々な背景があり、こちら側の解釈を相手に一方的に認めさせるなど、土台無理な話だとも思います。

 

要は何かすべきことがあるとすれば、これ以上状況がこじれないように、双方にとって好ましい展開を考えるべきだという事ではないでしょうか?

そう考えると差別などというのは、対処法として最悪ということになります。

アメリカでは人種差別の意識を持つ人間、レイシストとの定義とは『最悪の部類の人間』というものです。

となれば、レイシズムを容認することもすなわち最悪だということになるでしょう。

 

近々日本では降って湧いたような国政選挙が行なわれるようです。

この機会に日本人はこれ以上『最悪』を続けるつもりなのかどうか、そんな選択もしなければならないのではありませんか?

 

「ゴキブリ!」「ババア!」:故国を離れて暮らす韓国朝鮮人への執拗ないやがらせが続く日本《前編》

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所要時間 約 8分

基本的人権の蹂躙が日常化、子供たちまで攻撃の対象にする日本の差別主義者達

極右の人間たちが虐待・差別発言をオンライン上で日常的に行うようになった

 

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2017年9月2日

日本国内で暮らす朝鮮人の李信恵(リー・シネ)さんは、政治的な緊張がたちまちに、そして残酷な形で生活の場に持ち込まれ、個人攻撃という形で自分に向けられたことを思い知らされました。
フリーランスのライターある李さんは昨年、日本の極右グループの在特会に対する名誉毀損の裁判に勝訴した後、公の場で望まないプロフィールを押しつけられることになりました。

在特会の元リーダーであった櫻井誠氏は李さんをオンライン上と路上でのデモの最中に「朝鮮ババア」と呼んでいました。

「私はこの日本で生まれたのですが、それでも在特会のメンバーたちはここを出ていけ、韓国北朝鮮に帰れと命令しているのです。」

 

現在、北朝鮮は大陸間弾道ミサイルの発射実験を繰り返し、日本の北海道沖にミサイルを撃ち込むなどし、東アジア地区における外交的危機を劇的に悪化させました。

こうしたことから北朝鮮との間に家族関係を持つ数万人の韓国朝鮮系の住民が、日本人が北朝鮮に向ける敵意がそのまま無関係の自分たちに向けられる事を恐れなければならない事態に陥っています。
日本国内には約600,000人の韓国・朝鮮人居住者がいますが、その多くは太平洋戦争当時に強制的に徴用され日本に連れて来られた人々の子孫です。

北朝鮮政府に150,000人が忠誠を誓う一方、全員がキム・ジョンウン政権の行動のために敵意を向けられているのです。

 

約600,000人の在日韓国朝鮮人のほとんどは、第二次世界大戦前と大戦中労働者として朝鮮半島から日本に強制的に徴用されてきた人々の子孫です。
このうち約15万人が北朝鮮の体制に忠誠を誓っていると言われます。

彼らは北朝鮮の事実上の大使館である朝鮮総連の傘下にある学校に子供を通わせています。
その教室には金日生の肖像画が飾られています。

 

このうち小学生の子供たちに対する言葉による虐待が明らかになったのは2002年、当時の金正日(キム・ジョンイル)朝鮮労働党総書記が1970年代から80年代、日本国民を拉致したことを認めた後のことでした。
北朝鮮のコミュニティにつながりのある学校は、嫌がらせメールや電話による脅迫を受けるようになりました。
女子生徒たちに関しては、朝鮮半島の伝統衣装であるするのをやめろという嫌がらせを学校が受けました。
現在も子供たちはチマゴリの制服を着ずに登下校を行っています。

 

そして2010年になると日本政府は今後朝鮮学校への公的補助金の給付を打ち切ると発表、学校側では多くの分野で資金不足が発生する結果となり、政策の転換を求る住民たちによる一連の訴訟を引き起こすことになりました。

大阪大学客員研究員の丸岡康子教授は北朝鮮のミサイル発射により、北朝鮮系の学校がさらなる嫌がらせや攻撃を受けるようになったと語りました。
「政治的状況が悪化していることについて、誰もが緊張感を持つようになっています。特に子供達が敏感になり、怯えてもいます。」
北朝鮮系の教育機関に対する公的資金拠出の削除に弁護士として反対する運動に関わっている丸岡さんがこう語りました。
「日本政府は今、また朝鮮によるミサイル攻撃について、国民の間に懸念をかき立ています。そして韓国に基盤を置くものなら受け入れることは可能だという雰囲気を作り出しています。そして北朝鮮は最早敵だとみなされ、その延長として日本国内にいる北朝鮮出身の住民も敵だとしているのです。」

日本国内の北朝鮮系住民社会に対する敵対心が再燃したのは、ちょうど10年前に北朝鮮政府が核実験に踏み切った年であり、キム・ジョンイル体制がミサイル開発を加速されるのに比例して過激になっていきました。
そして在特会をはじめとする極右集団が、韓国朝鮮人を「ゴキブリ」と呼ぶようになり、「死ね」「日本から出て行け」などというスローガンを掲げてデモ行進するようになったのです。

 

こうした状況に対し国連人権委員会から圧力がかかり、日本は昨年、ヘイトスピーチをはじめとする差別的な発言のこれ以上の拡大を止めるための法律を可決しました。
しかしこの法律は違反者に対して罰則を課すことはありません。
それでも差別を煽る集会等の数は、法律の発効後1年でほぼ半減しました。

 

その代わりに今度は極右の人間たちはその虐待・差別発言の大半をオンライン上で行うようになりました。こう語るのは日本で韓国朝鮮人の人権問題の解決に取り組む活動家のキム・ウーキさんです。
「近頃はオンライン上で常時敵意と偏見に満ちた書き込みが見られるようになりました。」

キムさんは第二次世界大戦の戦前戦中に、主に朝鮮半島から徴用された来た数万人の若い女性が従軍慰安婦とされ前線に送り込まれた史実を象徴する彫像の設置を支援するFacebookページを運営していますが、彼女は毎日多量の攻撃的な書き込みに直面しているます。
典型的な書き込みのひとつの例は、「従軍慰安婦」は今で言う風俗嬢であり、生き残った少数の女性たちは日本政府から補償を「ゆすりとろう」としていると主張しています。

これらのコメントには、フォトショップで加工された屈辱的な姿勢の少女像の卑劣な写真が添付されていることがあります。
「日本で暮らす韓国人として、こうした画像を見なければならないのは極めて不快なことです。」
キムさんがこう語りました。

 

〈後編に続く〉

https://www.theguardian.com/world/2017/sep/02/cockroaches-and-old-hags-hounding-of-the-north-korean-diaspora-in-japan

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アメリカで黒人差別が人権問題としてクローズアップされた1960年代、最も激しく差別をしたのが「プア・ホワイト」と呼ばれる社会的に最下層にいた白人達だったことは以前もご紹介しました。

アメリカン・ドリームを叶えたり、充実した教育を受け高い社会的地位を得たり、努力によって何事かを成し遂げた同じ白人と比較し、誇るべきものは肌の色が白いというだけの人間達でした。

相手が傷つきやすい心を持つ、自分と寸分変わらない人間だということをなぜ考えることができないのでしょうか?

差別などというものが愛国心などというものと何の関係もないことだけは、はっきりしているのですが…

【 21世紀社会が抱える深刻な課題 : ノーム・チョムスキー 】《5》

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所要時間 約 11分

一般市民の基本的人権を蹂躙し、暴力と不寛容によってアメリカの強国化を図るトランプ政権、追従する日本

巨額の軍事予算のわずかな部分を削ることで、富裕な国々は大量の難民に人道的援助を提供できる

自分たちの政府が何をしているのか?市民の側にはできるだけ多くの情報が必要

 

デモクラシー・ナウ 2017年5月29日

 

ノーム・チョムスキー :

では私たちはシリアの現状に対し、何をすればよいのでしょうか?
私たちに出来ることは本当に簡単なこと、とても簡単なことです。
この戦禍から逃れて来る人々を援助することです。
皆さんも考えてみてください、いま膨大な数の人々がシリアから脱出を試みていますが、私たちは彼らのために何をしているでしょうか?
アメリカは彼らにここに来るな!と言っているのです。

 

わずか数代前の私たち自身の祖先も実際に迫り来るナチス・ドイツの脅威を目の前にして、大挙して東ヨーロッパを逃れ、アメリカにやってきました。
その当時のことと現在のシリアの状況を考え合わせてみてください。

しかしトランプはこう言っています。
「私たちはシリア難民の受け入れを望んでいない。アメリカには不要だ。」

ですから、シリア人はここにはほとんど来ないでしょう。来てもほんの一握りの人々だと思います。
しかしヨーロッパもそれほど良くはありません - 実際、状況としては絶望的です。
ですから私たちは自分に何ができるかを考え、実際に行動しなければなりません。

 

私たちに出来る別の選択肢、それはこの地域の人々に人道援助を提供することです。
すでに難民を受け入れている国があります。
例えばレバノンです。
しかしレバノンは私たちのような豊かな国ではありません。貧しい国なのです。
人口の約40%が難民であり、シリア難民の数が最も多く、その他1948年のイスラエル戦争から逃れて来た人々も多数に上っています。
もう一つの貧しい国ヨルダンも膨大な数の難民を受け入れてきました。
そしてトルコにも数百万人の人々が避難しています。
イランも難民を受け入れています。

このように非常に貧しい国が難民を受け入れている一方で、豊かな国は受け入れを拒否しています。
豊かな国々にとって難民の受け入れは義務ではありません、確かに私たちの義務ではありません。
私たちアメリカが直面しているのは中南米諸国からの難民問題であり、私たちにとっては人間としてのモラルが問われている一層深刻な問題ですが、ここでは話をシリアにとどめておきます。

 

私たちが出来るもう一つのことは、戦禍から逃れた人々、そしてかろうじて命を守ってはいるものの恐ろしい状況の下で生活しているシリアに残っている人たちに、必要とされる支援を行うことです。
いずれを行うにしてもすべて安価で手続きも簡単です。
軍事予算を増額して破壊活動を大規模なものにすることに比べれば、ほんのわずかな金額で済む話です。

エイミー・グッドマン:
さて、チョムスキーさん、あなたの最新著作に触れる前に、現在アメリカで進行中の社会情勢についてお尋ねします。
中央情報局(Central Intelligence Agency - CIA)長官が就任後最初の基調演説を行い、ウィキリークス(WikiLeaks)の存在を重要な問題として取り上げました。
そして現在アメリカ政府は、約5年もの間ロンドンのエクアドル大使館に軟禁状態となっているジュリアン・アサンジ氏の逮捕状を準備しているようです。
トランプ政権の下でマイク・ポンペオCIA長官はジュリアン・アサンジ氏を「悪魔」と呼び、米国憲法修正第1条で保障されている権利(基本的人権)によって保護されることはないと語っています。
あなたのお考えはいかがですか?

 

ノーム・チョムスキー:
それは事実をもって語るべきでしょう。
ウィキリークスは、政府にとって都合の悪い数多くの情報を公開しています。
しかし市民の側にはできるだけ多くの情報が必要です。
それは自分たちの政府が何をしているのか、についての情報です。

一方権力の中枢にある政府側が情報をできるだけ表に出ないようにするのは当然の成り行きであり、情報の流出を防ぐためにできるだけのことをします。
こうして権力の側は不名誉な行為に走ることになります。

ジュリアン・アッサンジ氏をエクアドル大使館に実質的に軟禁していること自体、恥ずべき行為だと思います。

 

私は自分自身一度彼を訪ねたことがありますが、もし自分が5年もの間一箇所にずっと居続けることになったらどうなるか想像してみてください。
あらゆる点で、刑務所に入れられるより悪い環境に置かれています。
刑務所にいれば、少なくとも他の囚人と接触する機会があります。
そして屋外に出て、太陽の光を浴びることもできます。
しかしアサンジ氏がいるのは外出することができない小さなアパートです。
バルコニーに出ることはできますが、基本的には小さなアパート内の小さな2部屋に閉じ込められています。
エクアドル大使館は大きな建物ではありません。

この大使館は実質的にはロンドンのアパートのようなもので、常に警察に包囲されています。

アサンジ氏がこうした状況に置かれなければならない明快な根拠は私は無いと考えています。
しかしアメリカ政府はそれを無理やり刑事告発のレベルにまで引き上げようとしているのではないかと思いますが、こうした類の行為は日常生活の中では決して褒められるべき類のものではありません。
権力は情報を隠すことよって自分の身を守るという傾向を持つものであり、本来なら市民が知るべき情報もこうして隠されてしまいます。
市民が本来知るべき情報を持つことを権力は望みません。
私はその点が重要な課題だと考えています。

 

エイミー・グッドマン:
そうした事実を考えると、私たちはチェルシー・マニング氏やエドワード・スノーデン氏のような人間に対する支持や援助の姿勢を明らかにする必要があるかもしれません。
エドワード・スノーデン氏は未だにエクアドル大使館に閉じ込められていますが、彼は公式の場で市民の知る権利が守らなければならないと語っていました。

 

ノーム・チョムスキー:
刑事告発するというのが真実なら、スノーデン氏はむしろそのことを誇るべきです。
チェルシー・マニング氏やエドワード・スノーデン氏は勇気ある行動を繰り広げました。
彼らは民主主義社会の市民はこうあるべきであるというその通りに真剣に責任を果たしました。

つまり国民は自分たちの政府が何をしようとしているのか常に把握していなければならないという信念です。
お分かりですか?
自分の国の政府がイラク国内で残酷な殺人を繰り返しているとしたら、国民全員がその事実を知っておくべきである。

 

1967年にマーティン・ルーサー・キングが行った演説を振り返ってみましょう。
もし政府、あるいは企業が偶然にもあなたの電話での会話を聞いていたとしたら、あるいはあなたがしていることを把握しているとしたら、あるいはこの場での議論を盗聴しているとしたら、そうした類の行為をする権限は民主主義国家の政府にはありません。人々はこのことを肝に銘じておく必要があります。
もし政府機関や企業がこうした行為をすることを決めたことを秘密にしなかったら、誰もが反対することでしょう。
これが政府機関や企業の行為が秘密にされている理由です。

 

ではなぜ多くのことが秘密にされたままなのでしょうか?
マーティン・ルーサー・キングも、チェルシー・マニングも、エドワード・スノーデンも、自分の身を大きな危険にさらして情報を白日のもとにさらしたのです。

ですから彼らは勇敢なのであり、行ったことは勇気ある行為なのです。
もしウィキリークスが彼らの行為をさらに拡大していれば、彼らはもっと力を得ることができたでしょう。
かれらはやるべきことをやった人々なのです。

 

エイミー・グッドマン:
確かトランプ大統領はウィキリークスを支持していましたよね?彼は大統領選挙期間中に「私はウィキリークスが大好きです。」と発言していました。

 

ノーム・チョムスキー:
その通りです。ただしトランプが好む内容のものが暴露されていた時に限ってそうだということです。
どのような権力機構も次のように言うに違いありません。
「私の望む通りの情報を公開するなら大歓迎だが、私自身の情報の公開はお断りだ。」

 

《6》へ続く

https://www.democracynow.org/2017/5/29/noam_chomsky_in_conversation_with_amy

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トランプ政権というのはまさに一般市民の基本的人権を蹂躙し、暴力と不寛容によってアメリカを強国に持ち上げようとする政治体制のようです。

それに追従する日本の政治体制も大差がなくなってきました。

私たちはそうした体制に対し悪口を言って一時的な快感を得るのではなく、トランプ体制や安倍支配といった政治勢力がこれ以上力を持つことがないように、自分に一体何ができるかということを真剣に悩んでいかなければならないと思います。

【 津波の下に消えてしまったこどもたち : 3.11の想像を絶する悲劇の真相 】《5》

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所要時間 約 8分

生き残った子供たちが迷いながら口にした証言が、それまで誰も気がつかなかった過誤を明らかにしていった

関係者の経歴に傷がつかないよう、悲劇が起きた本当の原因に関する異議を封じ込めることを目的に組織された事故調査委員会

 

 

リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日

大川小学校における悲劇の本当の惨状は、その後時間が経ってから明らかになりました。

その日学校には108人の子供たちががいました。

津波が襲いかかった瞬間、その場にいた78人のうち74人が亡くなり、11人の教師のうち10人が死亡していました。

 

その後、地震の後すぐに子どもたちを引き取るため学校に駆けつけなかった親たちは、激しく自分を責め苦しむことになりました。

しかし当時彼らがどのような状況にあったにせよ、子どもたちの安全を、そして命を守ることを最優先に行動したであろうことは間違いがなく、事態を軽視したとかどこかがだらしなかったなどという指摘は的外れです。

日本中どこにおいても自然災害に対する各家庭の備えは、国などが運営する学校よりもしっかりしています。

 

2011年3月11日、東日本大震災の地震と津波による犠牲者の数は約18,000人、その中で当時学校にいた子供たちは75人だけでした。

そして1人を除く全員が大川小学校の子どもたちだったのです。

 

佐藤かつらさんの娘さんのみずほさんは、大川小学校で起きた悲劇による犠牲者の一人でした。

「娘の葬儀の後、ですか?今はおおむね健康を取り戻しましたが、当時は病気になりました。」

かつらさんがこう語りました。

「私は起き上がることができなくなりました。3日韓寝込んでいました。そして繰り返し繰り返し娘を失った事ばかりを考え続けていました。そして段々、娘が命を失ってしまった当時の状況について強く疑いを持つようになったのです。それは確かに抗いようのない巨大な自然災害でした。当初私はこうした悲劇がたくさんの学校で起きたのだと考えていました。」

「でもそのうちに、そうした話が全然聞こえてこないのはなぜなのだろうと考えるようになったのです。」

北上川に沿ったいくつもの集落は、東日本大震災の発生から数週間を経て、ようやく息を吹き返し始めました。

そして他の親たちも同様の疑問を持ちはじめていたのです。

何が起きたのか、明らかになった真実は津波そのものとは対照的なものでした。

そこには巨大なクライマックスもなければ、すべてを破壊する波も無く、地軸が歪むほどの巨大な揺れもありませんでした。

真実は少しずつ、滴るようにしてその姿を現し、あるものは成り行きによって自然に、そしてあるものは人間の手で懸命に絞るようにした結果、現れ出てきました。

 

生き残ることができた子供たちが迷いながら口にした証言が、それまで誰も気がつかなかった過誤を明らかにしていきました。

そうした証言は結局『公式説明』の誤りの矛盾を明らかにする文書を形成することになったのです。

 

公式説明はそれ自体ぐらついたもので、何度も訂正が繰り返されました。

数ヶ月に1度、石巻教育委員会の公務員たちが開く、『新たな事実に基づく説明会』が開催されましたが、その都度彼らは子どもを亡くした両親たちの激しい怒りに直面しなければなりませんでした。

人びとは当初は気か進まぬ様子でしたが、自分たちが体験した事実について恐怖を込めて進んで証言するようになりました。

 

子どもたちの遺族の深い悲しみに人間として向かい合うことを拒否する市の職員たちの姿勢は、当初は市当局全体の機能不全やリーダーシップの不在という問題ではないと見なされていました。

しかし時間の経過とともに、両親は別の動機を疑うようになりました。

すなわち法的責任を認めたと解釈される可能性のあるいかなる言動も回避したいという脅迫観念にとりつかれているのではないか?という疑いです。

弁護士による遺族の感情を無視した助言は、市の職員たちすべての発言に反映されるようなりました。

市の職員たちは進んで深い悲しみと哀悼の意を表明しました。そして喜んでへりくだり、自分のような者は皆さんの悲しみを癒すだけの器ではないという態度を示しました。

しかし当事者の一員として特定の過失について責任を負うことや制度的欠陥、あるいは組織としての過失については誰一人として認めようとはしませんでした。

石巻市は、津波の23カ月後、大川小学校事故調査委員会の設立を発表しました。大川小学校事故調査委員会は1年をかけ、記録の点検と面接による聞き取り調査を行うことになりました。

こうしてまとめられた知見が2014年2月、200ページの報告書として公表されたのです。

 

委員会の使命は「検証」でしたが、その視野は詳細でありながら限られた内容のものでした。
報告書は起きた事実と原因を明らかにしていますが、決して個人的責任を特定する記述は何もありませんでした。
報告書は死者の数が多数に上った原因として校庭からの避難が遅れたこと、そして子どもたちと教師が最終的に津波から遠ざかるのではなく逆に津波が来る方向に逃げてしまったことを挙げました。

 

報告書によれば学校、教育委員会、石巻市の教育担当部署はこれほどの自然災害に対する準備は整っていなかったとしています。
津波の直接的被害を受けると想定されていた地域に、釜谷地区は含まれていませんでした。
学校の災害マニュアルの作成の際に津波に襲われる可能性は考慮されておらず、津波からの避難訓練も行われていませんでした。
そしてこうした学校の準備状況を確認していた地方自治体の関係者は一人もいませんでした。
報告書によれば学校の先生たちは「心理的に自分たちが重大な危険に直面していると認識することが」できませんでした。
これらのうち一つでも回避することができていれば、これほどの悲劇になることは避けられたはずだと、報告書は結論づけました。

しかしこの事件の最大の論争の的は、丘の上に避難したいと訴えた男の子たちについて沈黙していることです。
この少年たちは無視され、どこにも記述がありません。
2年もの間待たされた挙句、犠牲になった子供たちの両親に示された調査委員会の結論は、学校・教育委員会・石巻市当局はこれまでの見解を変えるつもりなどないということを再確認させただけでした。

 

この調査報告の真の目的は『独立した立場の』専門家たちが責任があるはずの関係者の経歴や評判に傷がつかないよう配慮を加えながら、遠慮がちに体制を軽く批判するという熱意に欠ける報告書を作成することで、悲劇が起きた本当の原因に関する異議を封じ込めることだった、両親たちはそう結論せざるを得ませんでした。

 

-《6》に続く –

https://www.theguardian.com/world/2017/aug/24/the-school-beneath-the-wave-the-unimaginable-tragedy-of-japans-tsunami

【 津波の下に消えてしまったこどもたち : 3.11の想像を絶する悲劇の真相 】《4》

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所要時間 約 8分

最もおぞましかったのは、津波が通り道にある人間世界のすべてをのみこんでいく際に立てた強烈な騒音

悪臭を放ち恐ろしい咆哮をあげながら海そのものが陸に上がってきた、そして人々に襲いかかった

 

リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日

津波を経験した人が見たもの、聞いたもの、そしてその時嗅いだ匂いはすべて微妙に異なっています。

それらの違いはどの場所で津波に襲われたのか、そして津波が何を乗り越えてやってきたのかによって異なっていました。

防波堤や護岸堤防を乗り越えてやってきた津波を目撃した人々は、それは巨大な滝の様だったと証言しました。

家や建物の中にいた別の人びとにとっては、急激に水面が上昇した洪水でした。

始めのうちは見た目にたいした事はありませんでしたが、足や足首がグイッと引きずられる感じががしたと思うとすぐに足、胸、肩を引っ張られそして殴られるような感覚に襲われました。

津波の色も、茶色、灰色、黒、白と人によって様々です。

 

実際の津波は日本人が伝統的に持っていた波のイメージとは似ても似つかないものでした。

日本人が伝統的に持っていた波のイメージ、それは有名な北斎の版画に描かれたような青緑色の、波頭にはまるで装飾のように優雅な白い泡のかたまりが浮かんだ海の波ですが、実際の津波はそんなものとはまるで違っていました。

現実に襲ってきた津波はすべてが桁違いで、もっと暗く、巨大で強力で暴力的であり、優しさや残虐性、あるいは美しさや醜さなどという価値判断とは無縁の、それまで見聞きしてきたものとは全く違うものでした。

海そのものが陸地に上がって来てどんどん迫って来ました。

そして恐ろしい咆哮をあげながら人々に襲いかかったのです。

そして悪臭を放つ海水、泥、海草が交じり合った物体でした。

 

最もおぞましかったのは、津波が通り道にある人間世界のすべてのものをのみこんでいく際に立てる強烈な騒音でした。

木材やコンクリート、金属やタイルが破砕されぶつかりあい、まるで悲鳴をあげるようにギイギイと鳴き声にも似た音を立てていました。

巨大なうねりが発生した場所では津波の表面に、破壊された建物の破片やがれきが寄せ集められたような、正体不明のごみのようなものが渦巻いていました。

まるで付近の町や村、都市全体が巨大なコンプレッサーのアゴに噛み砕かれ、粉々になってしまった後のような様相を呈していました。

 

釜屋地区全体を見渡すことができる丘の上に間一髪で逃れた永野和一さん、秀子さんの夫婦は、堤防を越えてなだれ込んだ津波が村や田畑全体にみるみる広がっていく様子を見つめていました。

「それは巨大な黒い山のようでした。津波は一気にやってきて、辺り一帯の建物を一瞬で破壊しました。」

「一個の巨大な物体の様でした。そして聞いたことがない音を立てていました。聞きなれた海の音とは違っていました。それは地球そのものがたてる轟音のようで、何かをぐしゃぐしゃに踏みつぶすような類の音と一緒になり、そしてうめき声のようにも聞こえました。」

そのはざまにもっと弱々しい別の音が聞こえていました。
「それは子どもたちの叫び声でした。」

永野秀子さんが振り返りました。

「子供たちはこう叫んでいました。『助けて!助けて!』」

半身が水に浸かりながらも丘の上に這い上がって何とか命が助かった高橋和夫さんにも子供たちの声が聞こえました。

「私も子供たちの声を聞きました。しかし津波がものすごい勢いで渦を巻き、水とがれきがぶつかり合うような音が響き渡る中、子どもたちの声はだんだん聞こえなくなっていきました。」

 

只野哲也君は泥で目が見えなくなり、津波の轟音で耳もほとんど聞こえない状態で丘の上にたどり着きました。
その手足は、瓦礫や木材、その他確認のしようもない何かに押さえつけられ、身動きができなくなっていました。
そして何やら動くものがその体の上にあり、その重量が哲也君にのしかかっていました。
それは哲也の友人で5年生の高橋航平君だったのです。
航平君の命は家庭用の冷蔵庫によって救われました。

航平君が津波に揉まれるようにして流されていた時、ドアが開いたのままの冷蔵庫が目の前に流れてきました。
彼は冷蔵庫の中に体をよじるようにして乗り込み、ボート代わりに身を乗せていましたが、最終的に学校の友人の背中の上に乗り上げたのです。
「助けて!君の体の下敷きになってる!」
哲也君はこう叫びました。
航平君は哲也君を冷蔵庫の下から引きずり出し、自由にしてあげました。
そして2人は急な斜面に立ち、眼下に広がる光景を見つめました。

 

かつての釜谷地区は点々と村落が連なり、その向こうには畑や丘陵が広がり、その間を蛇行しながら川が流れ、それが太平洋へと流れ込んでいました。
しかし津波に襲われた後、家も集落も畑も何もかも、見渡す限り海に続くまで消え失せてしまっていました。

哲也君の脳裏に最初に浮かんだのは、友達も自分自身もすでに死んでしまったのだという考えでした。
目の前を轟々と流れていく濁流こそ、話に聞く三途の川に違いないと思ったのです。

生前の行いが良かった人々は安全に橋を渡って天国に行くことができますが、行いの良くなかった者は恐ろしい龍が隠れている川をイチかバチか泳いで渡らなければなりません。
これに対し無垢の子供たちは善悪に関係なく親切な地蔵菩薩に導かれ、途中鬼や悪魔にさらわれたりすることなく、天国への道を進むことができるのです。

 

「もうすっかり自分は死んだものと思っていました。」

哲也君が当時をこう振り返りました。

「目の前を三途の川が流れれていると…。でもその時新北上大橋とその手前の大きな安全地帯が目に入りました。ああそうか、自分はまだ釜谷にいるのかもしれないと、その時思ったのです。」

一度引いたかに見えた津波が再び丘に向って押し寄せてきました。

男の子2人はさらに坂を上りました。

 

哲也君の顔は真っ黒で、おまけに傷だらけでした。

着用していたプラスチックのヘルメットは津波にもまれているうちにストラップがねじれ、完全にずれた状態で目に突き刺さるように顔を圧迫していました。

哲也君はその後数週間、正常な視力を取り戻すことができませんでした。

哲也君は津波に流されていたその瞬間の記憶はぼんやりとしたものでしかありません。

航平君は左手首を骨折し、肌には棘のようなものが刺さっていましたが、視力には影響がありませんでした。

航平君は一緒に学校に通っていた仲間の子どもたちと学校がどのような運命に見舞われたのか、目にはいるものすべてを目撃しました。

しかし航平君はその事について、決して人前で話そうとはしませんでした。

 

-《5》に続く –

https://www.theguardian.com/world/2017/aug/24/the-school-beneath-the-wave-the-unimaginable-tragedy-of-japans-tsunami

【 21世紀社会が抱える深刻な課題 : ノーム・チョムスキー 】《4》

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所要時間 約 11分

紛争地帯の一方の勢力に大量の武器『援助』を行うアメリカ、大規模な人道的危機が発生

「アメリカは世界中の暴力の最大の後援者」

国際紛争の場で次々に発生する残虐行為、そこに見え隠れする大国の影

 

デモクラシー・ナウ 2017年5月29日

 

イランにも北朝鮮同様、核開発疑惑が持ち上がっています。

マティスのような米国大統領に近い立場の高官たちは、イランはテロリストの最大のスポンサーであり、そのことが平和への最大の脅威であり続けていると語っています。

ではテロリストのスポンサーとはどういう意味でしょうか?検討してみましょう。

 

たとえば、イエメンではイエメンの反政府勢力である部族、フーシ族にイラン政府が援助を提供していると主張しています。

いいです、そういうことにしておきましょう。

では米国はイエメンで何をしていますか?

サウジアラビアと同盟する勢力にとてつもない量の武器援助を行っています。

供与された武器によって国土が破壊され、大規模な人道的危機が引き起こされ、膨大な数の人々が殺され、飢餓による大量の死亡者が出ています。

そしてさらにサウジアラビアの同盟勢力は、生き残った人々にとって援助を受けるために必要な場所としてたったひとつ残された港湾設備を爆破・破壊すると脅迫しているのです。

しかしテロの主な原因はイランが作り出している、それがアメリカの主張なのです。

エイミー・グッドマン:

私は数週間前の4月4日にも、チョムスキー教授にデモクラシー・ナウ!の番組の中でインタビューを行いました。

その日はちょうどキング牧師が『ベトナムを乗り越えよう』とう演説を行った日から50周年を迎えた日でした。彼はベトナム戦争に反対する理由として「アメリカが世界中の暴力の最大の後援者」になっているからだと語りました。

 

そしてその時私は北朝とイランの問題から、話題をシリアに転じようとしました。

しかしその日はシリアでガス攻撃が行なわれた日で、問題の本質については突っ込んだ議論ができませんでした。

私はチョムスキー教授がシリアの状況についてどうお考えなのか、一度詳しくお伺いしたいと考えていました。

そしてその後、シリアの問題についてはトランプ大統領は中国の習近平主席と完全に利害が一致したと語りました。

そしてトランプ大統領はアメリカがイラクへ向けたトマホークミサイルの発射に成功したと語りましたったのです。

そして、彼はインタビュアーによって誤りを指摘されることになりました。

その話は本当ですか?

ノーム・チョムスキー:

イスラム圏の情報は実に混沌としています。

しかしいくつか私たちが確実に把握していることがあります。

まずシリア国内で深刻な化学兵器攻撃が行われたとすることについて、誰もそれを疑うことはありません

状況証拠を積み上げていくと実行したのはシリア政府だったということになりますが、いくつかの疑問があります。

戦争に勝利するのがもはや間違いないというタイミングで、なぜアサド政権は敢えて化学兵器を使用したのかという疑問です。

 

この時点でアサド政権にとっての最悪の展開は、反政府勢力が間近に迫った勝利の土台を壊してしまう事でした。

その点を考えるといくつかの疑問が生じてきます。

確かにアサド政権は人を殺すことを何とも思わない残忍な体制であり、化学兵器攻撃を行うことについての動機など数え上げたらいくつでも理由があるかもしれません。

しかし、実質的に政権を支えているロシアがなぜ化学兵器攻撃を許したのか?という疑問も湧き上がってきます。

覚えておいて欲しいことがあるのですが、それはシリア政府の空軍基地は同時にロシア軍の基地でもあるという事実です。

ロシアはシリアで大きな影響力を持っています。

そしてロシア軍にとって化学兵器の使用は最終的に何のメリットも無い災厄でしかありません。

化学兵器の使用ということになると、問題はシリアに留まることなく、全世界的な問題に発展する可能性があり、ロシアにとっては何のメリットも無い選択なのです。

 

さらなる懸念があります。

ホワイトハウスは化学兵使用がシリア政府によるものであることが絶対に間違いないと確信するに至った理由を説明するために、諜報報告を提示し、アメリカ軍の行動を正当化しようとしました。

これに対し非常に誠実で信頼できるアナリストであり、マサチューセッツ工科大学の教授であり、きわめて信頼性の高い分析を長期に渡り行ってきた実績を持つテオドール・ポストル教授がこの報告書を詳細に検討しました。

ポストル教授は高く評価されている戦略アナリストであり、そして諜報活動アナリストでもあります。そしてポストル教授はホワイトハウスの報告書を、徹底的に批判しました。

この報告書はオンラインでも見ることができます。

トランプ政権下のホワイトハウスの報告書には確実にいくつかの疑問があるのです。

シリアのアサド政権が化学兵器の使用という人道上許されない行為をしかねないという点は間違いありません。

しかしここに一つの疑問が生じます。

現実の世界で何か行動を起こす前に、その結果を正確に予測することは可能でしょうか?

実際に起きたことを正確に検証してみましょう。

何かの事件が起きる可能性がある場所というのは実にたくさんありますが、それが現実になった場所は遥かに少ないはずです。

 

そして混乱の極にあるシリア国内から正確な情報を発信することは極めて難しいという事を、頭に入れておいてください。

反政府側の勢力圏に入りこみ、もしそこで彼らの発表内容をそのまま発信しないと、あなたの首は切り落とされてしまう可能性があります。

パトリック・クックバーンなど著名なジャーナリストたちが、こうした状況が存在することを伝えています。

そうした場所から客観的で正確な報道を行うことは不可能です。

そして今度は政府が支配する場所から正確な情報発信ができるのか、という事も明白な問題です。

真剣で勇敢な仕事をしている非常に優秀な記者たちもいますが、普通の人間にとっては簡単にできることではありません。

そのため、シリアについては我々は正確な状況を詳細に把握しているとは言えないのです。

 

これが59発のトマホーク・ミサイルが発射された状況なのです。

ミサイルの発射自体はかなり簡単なことです。

ワシントンにある指令室の椅子に腰かけ、ボタンを押して「さあ、やつを殺せ!」という行為自体は簡単です。

それは賞賛されるべき勇気であり、たくましさを象徴する、つまりはアメリカという国がどれほど強いかということを思い知らせるものなのです。

 

さてアメリカは実際に何をしたのでしょうか?

見た目で判断する限りトマホーク・ミサイルが攻撃したのは、飛行場の中の使われていないと思われる部分を破壊しました。

そして現実に、翌日にはこの飛行場から航空機が離陸していました。

さらなる現実は化学兵器の攻撃を受けたとされる地区は、59基のトマホーク・ミサイルによる攻撃の後、今度はアサド政権が直接行った爆撃によってなお一層激しく攻撃されてしまいました。

ですからアメリカ政府が何を企図していたにせよ、結果的にアサド政権には何の影響も無かったというしかありません。

つまるところアメリカ政府がやったのは、ニッキ・ヘイリー米国国連大使がいつもやっているトランプ新大統領のイメージアップ宣伝だと私は考えています。

「町に新しい保安官がやってきた!」

今や英雄ワイアット・アープがいつでも拳銃を抜いて、悪者どもをやっつけてくれる。もう四の五の言わせないぞ!という訳です。

強い大統領ドナルド・トランプ、そうしたはったりに過ぎなかったのではないでしょうか?

 

《5》へ続く

https://www.democracynow.org/2017/5/29/noam_chomsky_in_conversation_with_amy

+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

 

北朝鮮の核実験とミサイル開発に関する報道は国際的にも数が多く、日本においてはニュース番組などでは放送中に必ず一回は取り上げられる、という忙しさです。

NHKを始めとする国内報道では、前提条件としてアメリカの立ち位置を正義とする見解が不動のもののようですが、果たしてそうだろうか?ということを考えるようになりました。

私たち戦後に育った世代は、第二次世界大戦でナチスドイツと戦うアメリカ軍の映画を数限りなく見せられるうちに、頭のどこかに『アメリカ軍=正義の軍隊』という観念を持つようになりました。

しかし、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク、アフガニスタン、そしてチリのアジェンデ政権の崩壊への謀略等々の『本当の結末』を見るうちに、現代においては一方が完全な正義だという戦争や紛争があるはずがないという事を強く思うようになりました。

そしてケネディ兄弟の暗殺の背後には、本当は誰がいたのか?

これは特にロバート・ケネディ氏の暗殺の瞬間をとらえた報道に小学生ながらも全身が震えた私にとって、そしてジョン・レノンの暗殺の第一報に思わず叫び声をあげたた私にとって、生涯の課題のひとつです。

海外メディアにも北朝鮮を直接取り上げる記事が無数にありますが、対立しているのは何者かという視点も持っていただきたいという意味で、ノーム・チョムスキー教授の講演の続編を掲載しました。

 

【 津波の下に消えてしまったこどもたち : 3.11の想像を絶する悲劇の真相 】《3》

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所要時間 約 9分

避難を求める必死の呼びかけにも関わらず、なぜかすぐには行動しようとしなかった人々

多くの人が自分めがけて真っ黒な津波が押し寄せるまで、事態の深刻さを理解できなかった

津波が襲ってきた方向に避難するよう、指示を受けていた大川小学校の子供たち

 

 

リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日

 

地震が襲ってきたとき、石巻市職員で支所の一つに勤務していた及川俊信さん、グレーのスーツに身を包んだ50代の男性は大川小学校から遠くない事務所にいました。

5分も経たないうちに、気象庁から最初の津波警報を受け取りました。
及川さんと同僚の5人は、15分以内に屋根に拡声器を取りつけた市の3台の車に分乗し、直接警報を伝えるために市内に向け走り出しました。

 

及川さんたちがちょうど釜谷地区の外側に差し掛かった時、3キロほど先に見える北上川が海に注ぐあたりで見たこともない異常な光景が起きつつあることに気がつきました。
その場所は松原、海外沿いに松林が続く砂州と畑が広がっている場所でした。
松林の一本一本は樹齢が100年を超えたものばかりで、多くの樹が20メートル以上の高さに育っていました。

そして、今、及川さんの眼の前で海面がみるみる盛り上がり、緑色の表面を無数に泡立たせながら松林をのみ込み、松林をズタズタに引き裂いていました。

「私たちには木々の上で波頭が白く泡立っている様子がはっきりと見えました。」
及川さんがこう語りました。
「巨大な波が滝のようになって松林の上に降り注ぎました。そして近くにいた車の運転手たちが口々に私たちに叫んでいました。
「津波が来ているぞ!逃げろ!、逃げろ!すぐに私たちはUターンし、来た道を戻りました。」

数秒後、彼らは再び釜谷を駆け抜けていました。
数多くの余震が発生していましたが、集落全体に呪文がかけられたようになっていました。
及川さんの同僚のが車に取り付けられたスピーカーから叫んでいました。
「巨大津波が松原に到達しました。避難してください!すぐに高い場所に避難してください!」

「町中の路上に7〜8人の人が出ていて、おしゃべりしていました。」
及川さんが当時をこう振り返りました。

「しかし彼らは私たちにほとんど無関心でした。」

 

警察のパトロール・カーが集落の交番の前に駐車されているのを見かけました。
しかし警察官は警報を伝達しようとはしていなかったし、逃げようともしていませんでした。」
「私たちは学校の前も通過しましたが。車のスピードが早く、停止もしなかったため校庭の様子まではわかりませんでした。しかし私たちの発した警報は聞こえていたはずです。でもスクールバスはその場所に停まったままでした。」

 

その時、釜谷の集落では地震の後にいつも見られる光景が展開されていました。
その中に畑の中の大きな一軒家に住み農業に従事していた60歳代の男性、永野和一さんがいました。
「私も全部の警報を聞きました。」
永野さんがこう語りました。

市役所の広報車があたりを行ったり来たりしながら
「巨大津波が近づいています。避難してください!すぐに高い場所に避難してください!」
と言っていました。
至る所で警報も鳴っていました。
でも誰もそれを深刻に受け止めようとはなかったのです。

 

大川小学校の校庭では子供たちはますます落ち着きを失っていきました。
あたりを支配していたのは一種あきらめにも似た捨て鉢な気分でした。
そして寒さに苦しんでいたみんなは毛布や手袋や使い捨てカイロを分け合って使いました。
次々に何かが起きているという切迫感はありませんでしたが、間も無く何かが起きるという漠然とした恐怖感がありました。

 

午後3時25分、石巻市職員の及川さんを含め3台の広報車が走っていました。
大川小学校の校庭では先生たちが子供たちが体温を奪われないように、木に石油をかけてドラム缶で焚き火をする準備をしていました。

 

午後3時30分、川のそばに自宅があった高齢の高橋和夫さんが自宅から避難しました。
高橋さんも突如自宅の脇の川を海水が逆流し始めたのを見るまでは警報を無視していました。
それは地球の底から地殻を打ち破って噴き出してきたようにも見えました。
目の前の道路の金属製のマンホールの蓋が、噴き出した水によって上に持ち上げられました。

そして地震によって道路にできた亀裂の間からは、真っ黒な泥水が溢れ出していました。

高橋さんはこの辺りではもっとも近い避難場所である、大川小学校の裏側にある丘に向かって車を走らせました。
釜谷地区のメインストリートでは、友人や知人がひとかたまりになって立ち話をしていました。
彼は車の窓を開けると「津波が来てる。早くここから逃げろ!」
高橋さんはいとこ、そして妻の口からも同じことを言わせました。
しかし友人や知人たちは手を振って微笑み、そして警告を無視しました。

 

高橋さんは大川小学校の脇に車を停めました。
そして丘の頂上をめがけて丘を登り始めたとき、急いで学校から飛び出してきた大勢の子供たちに気がつきました。
その中に学校の校庭に同級生と一緒にとどめ置かれていた只野哲也くんがいました。

 

教頭の石坂氏の姿は校庭には見えませんでしたが不意に姿を表すと、こう告げました。
「津波が来ているようだ。急いで国道の安全地帯まで避難しよう。きちんと整列して、走らないように。」

 

哲也くんと友人の紺野大輔くんがグループの先頭に立ちました。

国道の安全地帯は集落の外れのここから400メートルに満たない、新北上大橋にかかるところにありました。
哲也君は国道の交差点に差し掛かると、まっ黒な水の塊が国道の上を彼めがけて文字通り怒涛のごとく押し寄せて来るのを目撃したのです。

子供たちが校庭を飛び出してから1分が経過したかしなかったか、わずかな間でした。
哲也君は轟音とともに真っ黒な上に白い泡が一面に浮いたかたまりが迫ってきていることに気がつきました。
それは子供たちがその場所に行くように指示された、川の方から迫ってきたのです。

避難した子供たちの先頭にいた何人かはすでに津波に飲み込まれ、波の表面で凍りついていました。

 

哲也君や大輔君含む数人が一斉に方向転換し、来た道を戻り始めました。
残りの子供たちはまだ津波がやってくる国道に向かって急いでいました。
後ろからやってきた低学年の小さな子供たちは、反対方向に向かって走る上級生の子供たちを目の当たりにし、明らかに困惑していました。

 

すぐに哲也君と大輔君は、自分たちが丘のふもとの最も斜面の険しい、最も木が密生している場所を登っていることに気がつきました。

どのタイミングだったのか覚えていませんが、哲也君は大輔君がすべり落ちてしまったことに気がつき、友人を助け上げようとしましたが失敗しました。

仕方なく哲也君は独りで丘をよじ登りました。

哲也君が後ろを振り返ると、真っ黒な津波がすぐ後ろで大きく盛り上がっていました。

それは哲也君の足を包み、すね、太もも、そして背中にへとかぶさってきました。

「その時、巨大な重力が自分をのみこんだように感じました。」

哲也君がこう語りました。

「強烈な力を持った何かが自分をおもいきり押しているような感じでした。呼吸ができなくなり、息をするために必死でした。」

哲也君は津波が自分の周囲で大きく盛り上がった瞬間、自分が岩と樹木の間に挟まれてしまったことに気がつきました。

それから先はまっ暗闇が襲ってきました。

 

-《4》に続く –
https://www.theguardian.com/world/2017/aug/24/the-school-beneath-the-wave-the-unimaginable-tragedy-of-japans-tsunami

【 津波の下に消えてしまったこどもたち : 3.11の想像を絶する悲劇の真相 】《2》

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所要時間 約 9分

確実に安全な避難場所の目の前で、なぜ大勢の子供達が命を失ってしまったのか…

「津波が来ます!子供たちを早く丘の上に避難させてください!」「まあまあ、落ち着いてください、お母さん……」

 

リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日

 

地震発生当初の大川小学校の子どもたちは、当初模範的と言えるスピードで避難をしました。

机の下身を隠してからわずか5分後、子供たちはそれぞれ自分のロッカーに保管されていた硬いヘルメットを着用し、クラスごとに校庭に整列しました。

その後石巻市当局は、生存している証人へのインタビューと目撃談に基づき、その日の午後起きたことを分ごとに記録した資料を作成しました。

その記録は大地震の後の興奮とあきらめ、光明を見つけ出そうとする思いと恐怖という地震直後の心理状態を映し出しています。

 

子供:みんなが座って、点呼が行なわれました。

低学年の女の子たちが泣いていましたが、城田さんと紺野さんがその子たちの頭を撫でて「大丈夫よ。」と言っていました。

ひとりの6年生の少年が「自宅のゲーム機は大丈夫だろうか?」

と心配そうに話していました。

 

子供:地震ショック症候群の一種かもしれない。吐き気がこみ上げてきた子は他にはあまりいないから。

 

子供:友達がこう言いました。「ほんとうに津波が来るのだろうか?」

繰り返し余震が襲ったことで、幼い子供たちの警戒心はいやが上にも大きくなっていきました。

午後2時49分、東日本から東北地方にかけて本震によって引き起こされた余震が繰り返される中、気象庁は6メートルの津波が押し寄せる可能性があると警告を発しました。

特に東北地方沿岸の住民は、全員が高地に避難すべきだと告げたのです。

午後3時03分、午後3時06分、午後3時12分、立て続けに大きな余震がありました。

午後3時54分、気象庁はさらに警告を発し、津波の高さが10メートルに達する恐れがあると発表しました。

 

校庭にいた教師たちは桜の木の下に集まり、小声で議論を始めました。
他の多くの日本の教育機関同様、大川小学校もマニュアルによって運営と管理が行なわれていました。

学習指導要領と呼ばれる日本の教育計画は、倫理原則から卒業式の式次第にまで言及しています。

その中では、火災、洪水、伝染性疾患の流行などの緊急事態への対応について、1章が割かれています。

学習指導要領は国が定めたものであり、学校はそれぞれ置かれている環境によってそれを手直しし、運用しています。

海岸線に近い場所にある小中学校では大きな地震が発生した直後、教師と生徒たちは急こう配の道や階段を登ってできるだけ高い場所に避難するよう指示していました。

しかし大川小学校では学習指導要領の中身を学校の実情に合わせて改訂することを担当していたはずの石坂教頭が、基本マニュアルの表現その他をそのままにして運用していました。
その時校庭に立っていた石坂教頭本人は、こうした漠然とした表現を目の前の現実に当てはめようとしていたのです。

「一次避難場所:学校の敷地…津波の場合の二次避難場所は学校近くの空き地、公園、その他…」

しかしこんな曖昧な表現は現実の役には立ちませんでした。

「公園など」という表現がありましたが、田園地帯である大川小学校の周りには畑や丘があるばかりで公園などは見当たらず、こうした場所ではほとんど意味をなしませんでした。

そして「空き地」については、周囲のいたるところにありましたが、問題は避難すべき場所をどうやって選ぶのかという事だったのです。

 

現実には明らかに安全な場所がありました。

大川学校は一番高いところで標高が220メートルの森におおわれた丘のすぐ前にあったのです。

数年前まで子どもたちは理科の授業の一環として、シイタケの栽培を行うためにこの丘に実際に登っていたのです。

この丘は最年少の子供たちですら簡単に上り下りできるような勾配しかなく、5分もあれば一番高い場所に行く着くことが可能だったのです。

海抜をはるかに超える津波が襲ってきても、5分あれば大川小学校の子どもたちは全員がその影響が及ばない安全な場所まで避難することが可能だったはずでした。

年配の教師のひとり、遠藤淳二先生は逃げ遅れた生徒がいないかどうかチェックをした後で、石坂教頭と交わした短い会話を覚えていました。

「私たちがすべきことは何ですか?急いで丘の上に避難すべきじゃないですか?」

しかし私はこう告げられたのです。

「余震が続くうちはそんなことは不可能だ。」

しかし生き残ることができた6年生の女子の1人は、もっと劇的な場面を記憶していました。

遠藤淳二先生は学校から飛び出すと大声でこう叫びました。

「丘、丘の上!丘の上に走って逃げろ!」

 

遠藤先生の警告に従おうとしたのは6年生の男子生徒、紺野大介くんと友人の佐藤裕樹くんです。彼らは担任の佐々木隆志先生にこう訴えました。

「先生、丘の上に逃げましょう。

 

遠藤先生が発した警告にすぐに反応した生徒たちがいました。

6年生の今野大輔くんと友人の佐藤優樹くんです。

二人も自分たちの担任の佐々木隆先生にこう訴えました。

「丘の上に避難すべきです。このままここにとどまっていたら、地割れが起きてそこにのみ込まれてしまうかもしれません。ここにいたら死んでしまいます!」

少年たちは丘の上の椎茸の栽培場に向かって駆け出しました。

しかし遠藤先生の提案は却下され、避難しようとした生徒たちもクラスのみんながいる場所に戻るよう命じられました。

 

このとき2つの異なるグループの人々が学校に集まり始めていました。
最初は両親や祖父母で、子供たちを迎えに車と徒歩でやってきました。
2番目は地元集落の人々でした。
大川小学校は近隣の釜谷地区の住民の指定避難場所だったのです。
このことが事態の展開を一層複雑なものにしてしまいました。

 

そして2つグループの間には明らかな意見の違いがあり、時に表立って意見がぶつかり合うこともありました。

教育委員会がまとめた記録には、この時の心情が綴られていますが、両親は、子供たちをできるだけ早く避難させたいと考えていました。

子供:私のお母さんが私を迎えに来てくれました。
私は佐々木先生に親と一緒家に帰りますと告げました。
でも私たちは、「今家に帰るのは危険だから、学校にいるほうがいい」と言われました。

親:私は佐々木先生に、
「ラジオでは10メートルの津波が来ると警報渓谷しています。」と言いました。
そして丘の上を指差してこう言いました。
「丘の上に避難してください!」
しかし私は、こう言われたのです。
「まあまあ、落ち着いてください、お母さん。」

この時地元の住民たちは、多くが大川小学校にとどまることを望んでいました。
学校にやってきたのはほとんどが専業主婦の母親たちでした。
そして留まり続けるよう主張していたのはほとんどが退職者、高齢者、男性でした。

それは何世紀も前に津波が襲ってきた時に記録されていた、人々の行動の再現であったかもしれません。
早く対応するよう訴えかける女性たちの声と、年老いたものたちの傲岸とも見える否定的な態度のぶつかり合いでした。

 

-《3》に続く –

https://www.theguardian.com/world/2017/aug/24/the-school-beneath-the-wave-the-unimaginable-tragedy-of-japans-tsunami

【 津波の下に消えてしまったこどもたち : 3.11の想像を絶する悲劇の真相 】《1》

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所要時間 約 9分

欧米メディアに大きく取り上げられているドキュメンタリー、その著者自らが綴る3.11の最大の悲劇

眼前に広がる無数の死や無惨な様子、そのとき受けた衝撃、心と体は……

 

リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日

 

2011年、東北地方の太平洋岸を津波が襲いました。

この津波では18,000人以上が犠牲になりました。

災害発生からすでに6年が経過しましたが、たった数秒間で運命を暗転させてしまった取り返しのつかない当時の決断により、未だに苦しみ続けている地域があります。

 

リチャード・ロイド・パリー/ロング・リード/ ガーディアン 24 August 2017

 

2011年3月11日金曜日に日本の東北太平洋岸を襲った地震は、世界の地震学の歴史上4番目に強力なものでした。

この地震は地軸を6インチ(15センチメートル)傾けるほど強力なものでした。

そして日本をアメリカに4メートル近づけました。

この地震によって発生した津波によって18,000人以上が死亡しました。

津波の高さは最大で40メートルに達しました。

 

50万の人びとが住む家を失いました。

そして福島第一発電所の3基の原子炉が崩壊して周囲の国土に放射能を撒き散らし、チェルノブイリ以来の世界最悪の原子力事故が引き起こされました。

地震と津波は2億1,100万ドル以上(約2兆3,000億円)の被害をもたらし、これまでで最も費用が高額な自然災害となっています。

苦痛と不安は様々な側面で計り知れない程、そして急激に膨れ上がりました。

それは直接的な被害を受けなかった人々ですら同様であったのです。

突然自分たちが育てた農産物を売ることができなくなった農民たちは、途方に暮れるしかありませんでした。

福島第一原発の事故に直接責任が無い電力会社の労働者は、自分たちが非難と差別の対象となってしまっていることに気づかされました。

眼には見えない放射能汚染への恐怖が人々の中で一般化され、空気を介し、そして多分水をも介して拡大し、母親たちの母乳すら汚染が疑われる事態となったのです。

 

戦場や被災地で働く人々はしばらくすると、現実を自分の頭の中から追い出すコツをつかみます。

これは職業上必要なことです。

医師、救助隊員あるいは報道関係者が、眼前に広がる死や無惨なありさますべてに衝撃を受けていたのでは心も体ももつはずがなく、仕事を続けることは不可能になってしまいます。

私自身、海外特派員や戦場特派員として働く中で、いちいちの悲劇を個人として受け止めることなく思いやりを持って対応するという技術を身に着けました。

私は実際に何が起きたのかその事実を把握しており、それがどれだけぞっとするでき事なのかも理解していました。

しかし心の奥底では、ぞっとしてはいませんでした。

「一瞬にして、私たちは想像でしかなかったはずのものが現実に目の前に展開されていることを理解しました。」

ジャーナリストのフィリップ・グレビッチ(Philip Gourevitch)がこのように書き残しました。

「こうした立場に立てるという事が私を最も魅了していることなのです。何が本当であるかを私自身が考えて答えを出す必要があります。」

 

一口に災害と言ってもその構成要因であるひとつひとつのできごとはまったく異なり、それぞれが持つ意味合いもまた違っており、私自身揺るぎない真実を書き綴っているという確信などはみじんも感じていませんでした。

取材を続けていた数週間、私が感じていたのは疑問、同情、そして悲しみでした。

しかしほとんどの時間、私は通常の感覚を失ったまま孤立したように感じ、何か重要なポイントを見失っているような厄介な感覚に苛まれていました。

そして他とは比較にならない程の悲劇に見舞われた小さなコミュニティに関する情報を得たのはずいぶん後になってからのことで、津波による被害が発生した年の夏のことでした。

その地の名前は大川、丘の下の田んぼに囲まれた、日本各地にある普段は目立たないような場所にありました。

被災地での取材は数年間に及びましたが、その間私はこの地を何度も訪れることになったのです。

そして徐々に大川小学校のイメージが私の中に徐々に出来上がっていったのです。

 

大川小学校がある場所は首都の東京から300キロ以上北にあり、日本有数の大河である北上川が太平洋に注ぎ込む場所から3キロほど内陸の地点の釜屋という集落です。

その場所がある東北地方は寒く酷烈な気候と、かつては野蛮人や鬼たちが独自の王国を築いていた場所として有名でした。

今日でさえ都会の住人から見れば、その場所は辺鄙で人口も少なく、何となく憂鬱な典型的農村というイメージの域を出ません

 

大川小学生に通っていた生徒の一人、只野哲也くんは髪の毛を五分刈りにした、優しい快活な雰囲気を持った11歳の男の子でした。

毎朝、彼は9歳になった妹のみなさんと一緒に川沿いの道を20分歩いて学校に通っていました。

東日本大震災当日は、母親の40歳の誕生日でした。

その日の夜は自宅でささやかなお祝いをする予定でしたが、それ以外はふだんと変わらない金曜日の午後になるはずでした。

昼休みには、子供たちは校舎に囲まれた校庭で一輪車に乗って遊んだり、四葉のクローバーを探したり思い思いに遊んでいました。

しかし川の方からは刺すような冷たい風が吹いてきており、哲也くんとその友達は両手をポケットに入れ、風に背中を向けて一列に並んで寒さをしのいでいました。

 

その日大川小学校の授業は午後2時半に終了しました。

午後2時45分、スクールバスはエンジンをかけたまま出発を待っていました。

数人の低学年の子供たちはすでにバスの中にいましたが、ほとんどの子供たちはまだ教室にいて、今週の最後の授業を終えようとしているところでした。

その 1分後、6年生のクラスの子どもたちは、この日誕生日をむかえたまんのという同級生の女の子ためにハッピーバースデー歌っていました。

地震が襲ったのは歌が真中に差し掛かった時でした。

 

当時6年生だった男の子の佐藤壮真くんは、はじめ教室が非常にゆっくりと左右に揺れていたと語りました。

「小さい揺れではありませんでした。巨大でした。先生たちは『机につかまりなさい』と言っていました。」

図書室に具合が悪くなって保健室で休んでいた息子を迎えにきた男性、鈴木真一さんがいました。

鈴木さんは魚を飼育している水槽内の水が大きく波打つのを目撃しました。

5年生の哲也くんのクラスでは帰宅の準備が始まっていました

「地震が襲ってきたとき、ぼくたちは全員机の下に身を隠しました。」

「揺れが強くなるにつれて、みんな口々に『うわあ! これは大きいぞ! みんな大丈夫か?」

強い揺れが止んだ時、すぐに先生が「私の後についてみんな外に出なさい!」

と言ったので、私たちは全員ヘルメットをかぶって外に飛び出しました。

 

-《2》に続く –

https://www.theguardian.com/world/2017/aug/24/the-school-beneath-the-wave-the-unimaginable-tragedy-of-japans-tsunami

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この稿は今年8月30日に刊行され、エコノミストやガーディアンの書評で大きく取り上げられている『ツナミ・オブ・ザ・ゴースト』の著者であるリチャード・ロイド・パリー氏の自身の手になるものです。

 

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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