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柏崎刈羽原発の再稼動と福島の悪夢の再現

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柏崎刈羽原子力発電所が立地するのは、多額の費用を投じた安全対策を台無しにするほど危険な場所

福島の巨大事故への拡大防止に失敗、数十万人の被災者に対し不誠実さをあらわにし、事故処理に場当たり的な対応を繰り返し行い、世界中から批判を浴び怒りの矛先を向けられた東京電力

 

 

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2017年12月28日

(写真上 : 東京電力柏崎刈羽原発の中央制御室の実物大模型を使い、危機の点検訓練を行う職員)

 

もしたった一つの建造物をもって市町村の性格を定義するとすれば、新潟県柏崎町と隣の刈羽村に住む90,000人の住民にとってそれは40年以上にわたり沿岸の景観を支配してきた巨大な原子力発電所ということになるでしょう。
7基ある原子炉がすべて稼働すると、柏崎刈羽原子力発電所は、1,600万世帯に電力を供給するのに十分な8.2メガkWの電力を発電することが出来ます。

日本海沿岸の4.2平方キロメートルの土地を占める柏崎刈羽は世界最大の原子力発電所です。

 

しかし今日、柏崎刈羽の原子炉は停止しています。

首都東京の北西約225kmにある新潟県内のこの原子力発電所は、2011年3月福島第一原発で発生した3基の原子炉メルトダウンによって全国的に停止に追い込まれた原子力業界において最高規模の犠牲者です。
しかし柏崎刈羽原発の所有者こそ、巨大事故への拡大防止に失敗し、数十万人に上った事故被災者に対し不誠実さをあらわにし、さらには事故を収束させる際に繰り返し行った場当たり的な対応によって国内はおろか世界中から批判を浴び怒りの矛先を向けられた、福島第一原発の所有者である東京電力に他なりません。

 

現在、東京電力は所有する3箇所の原子力発電所のうちの1つである柏崎刈羽で2基の原子炉を再稼働させられるよう、福島の事故で出来上がった最悪の企業というイメージを払拭しようとしています。
東京電力は柏崎刈羽原子力発電所を再稼働できて初めて、福島第一原子力発電所の事故収束・廃炉作業を行うために必要な資金をつくり出し、崩壊後に失った信頼を取り戻すことができると語っています。
今週、日本の原子力規制当局は東京電力に対し、福島第一原子力発電所でメルトダウンした沸騰水型原子炉と同系機の柏崎刈羽原子力発電所6号機と7号機の再稼働を正式に承認しました。

1ヶ月間の公聴会の後、日本の原子力規制委員会は、東京電力が原子力発電所を稼働させる資格を満たしていると結論づけ、2011年に自らが引き起こした巨大事故の後に導入された、より厳しい安全基準を2つの原子炉がクリアしたと述べました。

 

この決定の直前、東京電力はガーディアンに対し、世界で最も安全な原子力発電所であると主張する柏崎刈羽原発の独占的な見学と取材を許可しました。

福島第一原発では3基の原子炉がメルトダウンし東北地方の太平洋岸を中心に広範囲な破壊をもたらしました。
その同じ日柏崎刈羽原発は稼働中でしたが、外観は当時と変わらず稼働中の原子力発電所のように見えます。
敷地内では1,000人を超える東京電力の職員と5,000~6,000人の契約労働者が、6,800億円の費用がかかると予測されている改良作業を黙々とこなしています。

 

東京電力によれば、彼らはすでに最大15メートルの津波に耐えることができる防波堤を建設しました。
メルトダウンが発生した場合には、特殊な通気孔からは放射性物質の99.9%を取り除いた上で大気中に排気が行われ、特殊なシールドによって溶融した核燃料が原子炉格納容器の外側に漏れ出すのが阻止されます。
福島第一原発の事故では4基の原子炉で水素爆発が初制しましたが、柏崎刈羽原子力発電所には自己触媒再結合装置が水素爆発の繰り返しを防ぐことになっています。

 

複雑な構造の施設が立ち並ぶ広大な敷地の他の部分には、緊急車両、ウォーター・カノン、緊急発電装置、メルトダウンの壊滅的事態に至った際に原子炉を冷却するために2万トンの水を汲み上げるため丘の上に貯水池が設備されています。
「福島第一原発事故の発生に責任を持つ者として、私たちは教訓を得て、私たちが犯した過ちを検証し、ここ柏崎刈羽で学んだことを実践するべく取り組んでいます。 」
柏崎刈羽原子力発電所所長の設楽親さんがこう語りました。
「我々は常に安全性を向上させる方法を検討を続けています。」
「福島での経験を経て、同じミスをに度と繰り返さないように安全な体制をさらに強化するよう尽力しています。私たちは広く社会にそのことを説明していかなければなりません。」

▽「ここは原子力発電所に全く適さない場所である」

 

しかし東京電力側のこうした説明に一般市民は確信を持てずにいます。
昨年新潟県民は、原子力発電の継続に反対する米山隆一氏を知事に選出し、東京電力の計画に反発している姿勢を表明しました。
選挙の際に行われた出口調査では、投票者の73%が柏崎刈羽原子力発電所の再稼働に反対し、支持しているのはわずか27%にとどまりました。
米山隆一氏は、2019年春に柏崎刈羽原子力発電所の再稼働が予定されていことについて、新たに形成された委員会が福島第一原発の事故の原因と結果に関する検証を終え - 少なくとも3年はかかる可能性のある作業 - 報告を完了させるまで、再稼働に道意するか否かの判断は行わないことを表明しました。

 

多くの住民にとって、柏崎刈羽原子力発電所の立地は多額の費用を投じた安全性の向上を台無しにするものです。
「地質学的に言えば、ここは原子力発電所に全く適さない場所なのです。」
生涯にわたり反原子力発電運動を続けてきた、元地方議員の竹本和之氏がこう語りました。
竹本氏は海底の石油・天然ガス鉱床の存在がもたらす地盤の脆弱性と、東京電力が防波堤を築いた場所の地盤が大地震の際には液状化しやすいという事実を指摘しました。

さらには地元には、柏崎刈羽原発が事故を起こした際、その30km圏内に住む42万人を避難させれば混乱が避けられない可能性があるという批判があります。
「基本的に福島第一原発の30km圏内よりも人口が多く、しかもここは豪雪地帯です。最悪の場合、誰ひとり避難させることができなくなる可能性があります。」
と竹本氏はこう付け加えました。
「そうなった場合の状況は、福島よりもはるかに悪いものになります。」

 

こうした懸念に加え、2007年のマグニチュード6.6の新潟県沖地震の際に発電所内で軽微な被害を受けたことにより、周辺の活断層の存在が明らかになりました。
原子力規制員会は活断層は2つあり、うち原子炉1号機の下を走るひとつは過去40万年の間に実際に地震を引き起こした可能性があることを指摘しました。

しかし東京電力にとって柏崎刈羽の2基の原子炉の再稼働は年間利益2,000億円に達する利益の確保につながる可能性があり、財務運営上必要不可欠の要件です。

 

日本政府が行った試算によれば、福島第一原発の事故収束・廃炉作業は、住む場所と財産を失った周辺住民への補償と周辺地区の除染費用を含めると、総額21.5兆円に達する可能性があります。
この金額は原子炉の停止によってできた空白を埋めるため、東京電力が高価な化石燃料を輸入することに費やしている金額を上まわるものです。

日本経済研究センターは今年の初め、福島第一原発のメルトダウンした3基の原子炉から取り出した放射性廃棄物の処分費用を含め、今後40年間の福島第一原発の事故収束・廃炉費用の総額が50〜70兆円に達する可能性があることを明らかにしました。
設楽氏は次のように語りました。
「東京電力の社長のステートメントと社としての事業計画が明らかにしたように、で原子炉を再稼働することは東京電力にとってきわめて重要なことなのです。」

 

柏崎刈羽原子力発電所の再稼働に左右される問題はもっとあります。
安倍晋三首相はエネルギー政策の中心に原子力発電を据え、強引とも言える原子力発電所の再稼働政策を推進しています。
安倍政権は2030年までに、約20%の日本の電力を原子力発電によって賄うことを望んでいます。
そのためには約30基の原子炉の再稼働が必要です。

 

日本国内の稼働可能な原子炉のうち、現在動いている原子炉は4基だけです。
福島第一原発事故の後に導入された厳しい新しい安全基準をクリアした原子炉は複数ありますが、再稼働はそれぞれの場所で強力な反対に遭遇しました。

再稼働を進めるため手続きの一環として日本全国の人々は最近、柏崎刈羽原発の再稼働と東京電力の原子力事業者としての適性について意見を求められました。
柏崎刈羽原子力発電所の広報部門の石川氏は、東京電力は福島第一原発の事故から学ぶべきものを学んだと主張しています。
「3.11の発生以前の私たちは傲慢で安全性の向上を怠っていました。 あの巨大地震は私たちを目覚めさせました。私たちは安全性の向上を休みなく続けていかなければならないことを理解しています。」

こうした東京電力の見解を刈羽村住民の河合幸子さんは否定しました。
地元の人々が安心して暮らせるようになるなら、原子力発電所を永久に停止させることにより国から支給される補助金を失うことになっても、それは価値ある犠牲だと語りました。」
「2011年の福島第一原発の事故を引き起こした東京電力が、この場所で原子炉を再稼働させることを支持する理由はありません。」
「東京電力は福島第一の安全性は完全なものだと言っていました。しかし私たちは何が起きたかを、この目ではっきりと見ました。」

 

https://www.theguardian.com/world/2017/dec/28/fears-of-another-fukushima-as-tepco-plans-to-restart-worlds-biggest-nuclear-plant

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【危機の時代のジャーナリズム】第3回は次回掲載いたします。

 

危機の時代のジャーナリズム《2》

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所要時間 約 10分

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より高度な教育を受けることによって貧困から抜け出し、多様な生き方ができるようになり、多くの人々が政治の重要さを認識することになる

愛国主義を振り回す風潮に抗い、平和のためのキャンペーンを続け、買収不能の自由主義報道の意地をつらぬいた編集者がいた

 

キャサリン・ヴィナー / ガーディアン 2017年12月2日

1819年8月16日マンチェスター市民のほとんどがセントピーターズ・フィールドに集まりました。
群衆のあまりの多さとその要求に脅威を感じた市長をはじめとする市の幹部たちは、武装した騎兵に集会に突入し力づくで解散させるよう命じ、急進派のヘンリー・ハントを含め演壇に上がった全員の逮捕を命じました。
騎兵たちは馬の上からサーベルを振るい、「手当たり次第に人々を斬りはらいました。」
こうしたその日集会に参加していた7人の男性と4人の女性の計11人が死亡し、数百人が負傷しました。
歴史家のA.J.P.テイラーは、ピータールーのこの事件は『イギリスの古い秩序の解体のきっかけを作った」と語りました。
この事件は『ピータールーの虐殺』あるいは『ピータールーの戦い』としてたちまち有名になり、その影響は計り知れないほど大きなものになりました。

 

その日集会の会場にいたジョン・エドワード・テイラーは週刊紙のマンチェスター・ガゼットにこの時の様子を報告する記事を寄稿しました。
この第一報を伝えたロンドンのタイムズ紙の記者が逮捕されたとき、テイラーは首都ロンドンの人々がマンチェスターの大量虐殺の正確な情報を得られない可能性があると懸念していました。
彼は現場にいたジャーナリストが事実を伝えなければロンドン市民は事実の代わりに公式発表を信じる以外の選択肢しかなく、結局流血の惨事を引き起こした責任がうやむやにされてしまうと危惧しました。

テイラーはロンドンに向け夜中馬車を走らせ、事件の報告記事を急いでタイムズに持ち込み、マンチェスターの抗議集会の様子を国家スキャンダルに変えたのです。

テイラーは冷静な文章で事実を明らかにしました。
彼は目撃した事実を報告することにより、力を持たない人々がどのような目に遭わされたのか、力強く描写しました。
しかしテイラーの業績はそれだけではありませんでした。
虐殺事件の後、彼は負傷者の運命について数ヶ月間調査を続けこれを報告し、400人以上の事件の負傷者の事件後の様子について文書化したのです。

 

ピータールーの全容を解明するためのテイラーの絶え間ない努力は、彼自身の改革派としての政治的見解を強固なものにし、議会における公平な議席の構成を実現させるべく世論を喚起する活動を行うことを決心させるに至ったのです。

彼は自身の新聞であるマンチェスターガーディアンを創刊しました。
創刊のための資金は他の中産階級の財政支援に頼りました。10人がそれぞれ100ポンド、11人目が50ポンド寄付しました。
創刊号は1821年5月5日に発行され、啓蒙主義、自由、改革と正義に捧げられました。
ガーディァンは一人の人間の確固たる信念と楽観主義によって創刊されたのです。
彼はこう語っていました。
「ピータールーの虐殺、そして警察による様々な形をとった圧力…しかし理性は偉大であり最終的に勝利することになるだろう。」

 

マンチェスター・ガーディアンはきわめて楽観的な気分とさらには普通の人に対する信頼を基に設立されました。
テイラーが創刊前に発表したマニフェストには非常な勢いで「教育の普及」が進んでいる事実が語られ、それにより「政治的な課題が人々の大きな関心事となり、議論の対象となる現象が人々の間で非常な勢いをもって広がり続けている状況が」熱っぽく語られています。
そして「この大きくなり続けている政治への関心を、現実を変えていく力に最大限転換していくことが最も重要である」と述べています。

これはきわめて力強いメッセージであり、この理想こそが現代までガーディアンの基盤を形作ってきたものなのです。
より多くの人々がより高い教育を受けることにより貧困から抜け出し多様な生き方ができるようになり、そしてより多くの人々が政治に関心を持つことになる、そうしたうねりが生みだされるれることに大きな価値を見出しているのです。

このメッセージはマンチェスター・ガーディアンが政治に関わろうと考え始めた人々と密接に関わり、人々が行動を起こすために必要な情報を提供することを可能にしたいという、国民に対する責任感をも明確にした文書です。
それはまったく冷笑的でもなく、権柄づくでもない、完全に一般市民の側に立ったメッセージでした。

 

しかし1844年のテイラーの死後から数十年が経つと、マンチェスター・ガーディアンは創刊当時に掲げた政治的な理想から逸脱し始めました。
マンチェスターの綿業界と密接な関係を築いて多額の広告収入を得たことは経営上は大きな恩恵がありましたが、紙面の上では問題を生じることになりました。
マンチェスター・ガーディアンはアメリカ国内の南北戦争で奴隷制度の存続を求める南軍の側に立つことにもなりました。
マンチェスターの綿業界の労働者たちはアメリカの奴隷制の下で採取されたコットンに触れることを拒否し、路上で空腹をかかえていましたが、マンチェスター・ガーディアンは直ちに職場に復帰するよう要求しました。
マンチェスターの労働者たちの抗議行動はいかなる国のいかなる階層からも支持されていませんでしたが、アメリカ大東利用のエイブラハム・リンカーンは1863年、「マンチェスターの労働者たち」にキリスト教徒としての崇高な勇気に感謝するメッセージを贈りました。

ガーディアンにとって自分しか見えなくなってしまったこの期間は、C.P.スコット編集長の任命によって劇的に終わりを告げました。
C.P.スコットはそ広告主におもねる論調を一新し、創刊以来のガーディアンが最も大切にしてきた市民の立場から政治に直接関与する姿勢を再び確立することに貢献しました。

 

スコットは1872年に25歳で編集責任者になりました。
彼は社会正義と平和主義について最大の関心を持つ、急進的な自由主義者であり政党の活動家でもありました。
スコットは編集者として過ごした57年間に社会正義と平和主義という2つの大きなイデオロギー的課題に取り組みました。
このスコットの姿勢が、今日まで続くガーディアンの編集方針と経営方針を確立することに貢献したのです。

 

最初の問題はアイルランド自治政府問題でした。
1880年の自由党の分裂原因となった当時もっとも熱い議論が戦わされたこの問題について、スコットはアイルランドの自治を実現させる側に立ってキャンペーンを行いました。
歴史家のデイヴッィド・アイアーストの言葉を借りれば、ガーディアンは明らかに「最左翼の論客」となりました。 そそして19世紀の終わり、スコットはガーディアンを議論が沸騰していた反植民地主義的立場を打ち出しました。

1899年から1902年まで続いた第2次ボーア戦争では、英国は横奪的な行動に出ましたが、英国内では戦争に反対する者は『裏切り者』扱いされました。
それでもガーディアンはこうした風潮に抗い、平和のためのキャンペーンを行いました。
ガーディアンの花形記者の一人であったエミリー・ホブハウスは、イギリスが南アフリカの地に作ったボーア人の強制収容所の写真を公開しました。

しかしこうした論調は賛否両論を生み、ガーディアンは広告主とその売上の7分の1を失ってしまいました。
ガーディアンが崩壊寸前だと確信したライバル紙は、マンチェスターのクロス・ストリートのオフィスの前にブラス・バンドを送り込み、ヘンデルのオラトリオ『サウル』の葬送行進曲を繰り返し演奏させました。

 

スコットの姿勢は勇敢と言うべきものでしたが、ガーディアンは廃刊寸前に追い込まれました。
それでもスコットは当時の政治情勢に立ち向かい、この新聞を「教育レベルの高い男女が持つ急進的改革思考の有力な表現手段」に変えたと歴史家のデイヴッィド・アイアーストは書いています。
「ガーディアンの紙面は明らかに買収不可能だった。」

 

スコットはガーディアンの紙面をさらに急進的なものにし、「新自由主義」として知られていた自由競争主義とは距離を置き、社会的正義と福祉にの実現を目指すようになりました。
こうしてガーディアンはその後も何度か訪れた危機を一つ一つ乗り越えながら、今日まで創刊以来維持してきた進歩的な路線を歩み続けることになったのです。

 

《3》に続く

https://www.theguardian.com/news/2017/nov/16/a-mission-for-journalism-in-a-time-of-crisis

 

危機の時代のジャーナリズム《1》

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所要時間 約 9分

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暴力が肯定される時代となった今、メディアはその価値観と原則を定義しなおさなければならない

自由を守る、そして自由の価値を不朽のものにする、それが報道の真の価値

一般の人々が力を合わせて既成の権力に立ち向かい勝利するという、常識を覆すアイディアを世界に示したフランス革命

 

キャサリン・ヴィナー / ガーディアン 2017年12月8日

約200年前、イギリスのマンチェスターで発行された新聞にはこう書かれていました。

「報道がただ単に一般市民の興味を集めるというより、問題の本質に対するもっと重要な疑問をかきたてることを求められるようになった、そうした時代に変わったということが明確にされたことは、この国にあっては過去ありませんでした。」

と前置きしたうえで、

「政治的な疑問に対する活発な議論」と「事実に関する正確な詳細」が

「現在のような時代の転換点において特に重要なこと」

であると宣言しました。

 

そして現在、私たちは歴史上もうひとつの極めて特殊な時代の中を生きています。

ひとつはまばゆいばかりの政治的ショックによって定義されており、もうひとつは私たちの生活全般に及んでいる技術革新による破壊的影響です。

これまでの20年間に一般社会に起きた変化は、それ以前の200年間を上回るスピードで急激に変化しており、ガーディアンを含む報道機関はその変化に追いつくために必死になってきました。
しかし今私たちが生きている時代の混乱は、我々に対し適応能力以上のことを要求しているかもしれません。

私たちがニュースを取材、制作、配信、入手する環境はきわめて劇的に変化してしまいました。

そのために何をしなぜそうするのかを、現在ほど厳しく問われている時代はありません。

ガーディアンを所有しているスコット・トラストが1936年に設立されたとき、その目的をきわめて明快に表現していました。

「ガーディアンの財政的および編集上の独立性を永久に確保し、ガーディアンの報道の自由と自由の精神を商業的干渉と政治的干渉から完全に独立させる」

編集者のひとりとしてこれ以上の使命を見つけることは困難な程、報道機関の所有者としてその使命は明快なものでした。

こうしてガーディアンの唯一の株主は、ジャーナリズムの自由と長期的な生き残りだけに関与することになりました。

しかしスコット・トラストの使命がガーディアンの報道機関としての健全性を永遠に担保する事である一方、ジャーナリズムの使命が何であるかを定義することは現実に編集を行う私たちに任されています。

私たちが取り組む仕事の意義と目的は何でしょうか?

私たちは社会でどのような役割を果たすべきなのでしょうか?

 

20年間働いてきて、私はガーディアンの存在意義というものを無意識のうちに理解できたと感じています。

 

私たちジャーナリスト、そして大半の読者が報道に価値を感じている理由は、自由を守るための一つの方法として、そして自由の価値を不朽のものにするという点にあります。

そして私たちは、ガーディアン的ストーリーを定義するもの、それはガーディアン独自の視点によって形成され、良くも悪くも『きわめてガーディアン的なもの』にする要因を熟知しています。

オーストラリアのガーディアンの編集者、次に米国のガーディアンの編集者として過ごしてきた私は、ガーディアンのジャーナリズムの本質を特定し、それとは別の際立つ特徴を作りだすことを常に念頭に置きながら、新たなガーディアンの読者を獲得しようとしてきました。

そして今私はガーディアンとオブザーバーの編集長として、現在はさらに深い洞察が必要だと感じています。

 

私たちの根本的使命とは何でしょうか?
私たちの過去、現在そして未来、それがこの質問に対する答えです。

混乱が大きくなり続けている現代と深くかかわりながら、自分たちの過去を振り返りつつ永遠に持続可能な方法で、私はガーディアンの方向性を作っていきたいと考えています。

 

ガーディアンの歴史は1819年8月16日、英国のジャーナリスト、当時28歳だったジョン・エドワード・テイラーが、マンチェスターでの議会改革のための大規模なデモに参加したときから始まりました。セントピーターズ広場では、当時人気の急進的改革派の論客であるヘンリー・ハント(Henry Hunt)が、マンチェスター地区の人口の半数以上にあたる6万人の群衆に対し、夏の日曜日の正装をして帽子を触りながら演説を行っていました。

当時、英国内には既成権力に反抗する気分が充満していました。

30年前のフランス革命は、一般の人々が力を合わせて既成の権力に立ち向かい勝利するという、それまでの常識を覆すアイディアを世界中に広げました。

それは民衆の覚醒であり、既成の権力の座にあったものにとっては恐怖以外の何ものでもありませんでした。

英国がワーテルローで勝利することによりナポレオン戦争が終わった後、英国は景気の落ち込みと失業率の高さに苦しんでいました。

穀物法や大陸封鎖令によって高騰した穀物価格はナポレオン戦争後も人為的に高いままにされ、庶民は飢餓状態にありました。

 

当時英国では国内至る所で抗議行動や暴動が頻発していました。

それは当時始まりつつあった産業革命の流れの中で新しく発明された工場用の機械を破壊するラッダイト運動から奴隷制度に反対する人々の砂糖をボイコットする運動まで、全国であらゆる種類の抗議行動と暴動が巻き起こっていました。

 

そして選挙投票権を求める運動も拡大していました。

当時すでに大都市であり人口密度の高いマンチェスター市でしたが、国会には一人の議員もいませんでした。

イングランド南部の豊かな村であるオールド・サラムには有権者は1人しかいませんでしたが、国会には2人の議員を送り込んでいたのです。

大都市で新たに台頭した実業家たちなどは、この腐敗したシステムの改革を要求していました。

そして労働者階級も、さらには歴史上初めて女性も選挙の投票権を求めて立ち上がっていました。

経済的な苦境、政治的な抑圧、経済的な問題を抱えた労働者の状況は政治問題化し、一触即発の状況にありました。
エッセイストのウィリアム・ハズリットはこの1年前、こう書いていました。
「すでに確立されたすべてのものが、我慢できないものになっていた…世界は混乱の極みに達してしまった…」

 

《2》に続く

https://www.theguardian.com/news/2017/nov/16/a-mission-for-journalism-in-a-time-of-crisis

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新年明けましておめでとうございます。

2018年最初の掲載は『真のジャーナリズムとは何か?』ということを問う大部のガーディアンの記事です。

ひるがえってこの国では安倍政権以降、権力を握る者の強みを見せつけるような政治が行われていることに対し、NHKをはじめとする日本の大手メディアの多くは迎合するような報道を続け、市民にとっての公正と正義が見えにくくなってしまっています。

まさに今回の掲載にある通り、『自由を守るための一つの方法として、そして自由の価値を不朽のものにするという点に報道の価値を感じている』人間の一人として、この記事からご紹介していきます。

 

なお、1月第1週のみ

第1回 1月1日掲載

第2回 1月4日掲載

第3回 1月7日掲載

とさせていただきます。

以降は従来通り、月・水・金の週3回掲載してまいります。

本年もよろしくお願いいいたします。

このサイトについて
ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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