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今、4月18日現在、仙台市宮城野区の東部有料道路の上から海の方を見ると、松が密生した松林があったはずの方向に数本の松が透けて見えます。
ここはかつて仙台藩が開削した貞山運河が南北にまっすぐ伸び、その両岸には広大な松林があって、仙台市民の憩いの場となっていました。ホオジロ、シジュウカラ、アカゲラ、コゲラ、カワセミなど数えきれない程たくさんの種類の野鳥がいて、季節ごとに美しい鳴き声を聞かせていました。時にはヨシキリのようなにぎやかな野鳥も集い、静かな松林と好対照をなしていました。大量に落ちている枯れた松葉は、その上を歩くとクッションのようにふわふわで、歩いていると木々の間に何か野鳥の気配がしました。
そして3月11日の午後。
津波によって松林からたくさんの松の木が失われ、現在の惨状となっているようです。近くに行って見てみたいのですが、一ヶ月以上たった今も警察・自衛隊などによる捜索・復旧活動が続いており、個人的興味でそこに立ち入る事など許されていいはずがありません。
地震当日の証言の中で、押し寄せる津波の先頭を「家や立ち木がそのままの姿で、どどど...っと、迫って来た。みんな、必死で逃げた...」という直接津波の被害に遭われた方のお話には、本当に驚きました。
松林があった辺りのずっと手前には泥に埋もれたかつての田んぼが広り、数えきれない数の車が横転、反転するなどして散らばっています。
この辺りは、5月が過ぎると水が張られた緑の田んぼの中に真っ白なコサギ、チュウサギがじっと立って、えさ取りをしていたものです。
田んぼと道路には2メートル程の段差があるため、田んぼの縁にあたる部分に多数の乗用車が打ちつけられ、折り重なっています。その破損具合はひどく、押し寄せた津波の破壊力がいかにすごかったかを伝えています。
そんな中、点在する農家の中には片付けをしているお宅がありました。でも無人のまま、廃墟のようになっているお宅もあります。
私は原爆投下直後の広島市を撮影した記録写真を思い出しました。
一面に広がる生命なき世界。
でも、ここの人々はこれからも生き続けなければなりません。
そう、生きるという事は、自分の周囲に生命(いのち)の火をともして行くことなんですね...
庭木に野鳥がやって来る。
庭で花を育てる。
まっすぐ天に向かって立ち、夏に人々に木陰で憩わせてくれるのも樹木という生命。
掃除のゆきとどいた茶の間に射しそめる陽の光の中で猫が昼寝する。
そして、子供たち。
子供たちこそが、復興して行く社会の生命の火です。
復興に向かう今だからこそ、
社会がもっともっと子供たちを大切に守り育てて行かなければならないのではないでしょうか?
復興には10年、20年という歳月を費やす事でしょう。
その頃には、今の子供たちが社会の担い手となっていきます。
大人になった彼らがさらにたくさんの生命の火を灯し、
豊かな社会を築く事ができるよう、
大切に守っていきましょう。
私は19世紀、世界に冠たる大英帝国が存在したその時代において、英国保守党の政治家として生きた者です。
大震災以降混乱する日本の皆さん、あなた方の『政治』について、一言申し上げたくてペンをとりました。
私は生涯において2度、英国の首相を務めました。
後世の方々が私の『功績』としているのは
1. スエズ運河の国有化 これは議会に承認を得ること無く、独断でロスチャイルドから借金し、売りに出ていたスエズ運河の株式を購入。英国~地中海~紅海~インド洋の航路の安全性を確保し、大英帝国の植民地経営・政策に大きな貢献をしたこと。
(日露戦争の際、日本は英国と日英同盟を結んでいたため英国はバルチック艦隊の航行を様々な形で妨害した。このため日本海に向かうバルチック艦隊はスエズ運河を通行できず、アフリカ大陸の南端・喜望峰周りの航路を航行するしか無かった。)
2. ロシア・トルコ戦争の際、ベルリン会議でプロシアのビスマルクの協力を得て、ロシアの南下政策を阻止したこと。
などです。
典型的な『帝国主義者』と言われることもありますが、世界の趨勢が帝国主義であった時代に、英国の政治家として自国の弱体化に向けて舵を切るわけにはいかなかったこと、ご理解いただけると思います。
私は大英帝国の繁栄と女王陛下の栄光のため、ただひたすらその目的のための政治を行いました。
1875年、私はスエズ運河を英国のものにする際、ユダヤ人のロスチャイルド家から議会の承認を経ずに買収資金を借り入れました。
この行為がイギリスの憲法制度に反すると自由党のウィリアム・グラッドストン氏に告訴されました。
我が生涯のライバルであったグラッドストン氏は、その持ち前の雄弁によって徹底的に私を追いつめました。
グラッドストン氏の追求は辛辣を極め、議会において進退に窮したことは1度や2度ではありません。
しかし、その事によってうろたえたり、あわてて政策変更をしたり、ということはしていません。
さて、大震災、津波、そして原子力発電所の事故という未曾有の国難にある中での、あなた方の国の政治についてです。
結論から申し上げれば、政治とは言っていいのかどうか......
政治家という職業は、実現したい政治理念があってなるべきものだと思っています。
しかし日本では政府も野党も、つまり日本の政治家諸氏がいったい誰のために政治をしているのか、誠に理解に苦しみます。
もし右足をくじいたら、人はまずその治療に専念しながら、両手と左足で補いながら暮らす事を考えるはずです。
しかるにあなた方の政治は、ひとつの体の中で主導権を右手がとるのか、左手がとるのかで争っておられる。
右手と左手がケンカしていたのでは頭が何を考えても、実現できるものなど何も無いのではありませんか?
いま政権に必要なのは復興を可能にする現実的な政策であり、野党に必要なのは対抗する具体的なプランです。
これら異なる政策を議会において比較・検証し、国民を最も幸福にできる方法を導きだすのが『政治』であると、私は考えます。
唖然としたのは、政権与党内ですら - 今はひたすら被災者を迅速に救済する事を第一に考えなければならない人たち - が、まるで『遺恨試合』のような泥沼の争いを始めようとしていることです。
被災地・被災県の日本のみなさん、あなた方の困難は天災によってのみ、もたらされているのではないようです。
でもあなた方も、訴え続ける必要があります。
むしろこれからがたいへんなのだと。
小さな子供、育ち盛りの子供を抱えていながら、職を失ってしまっている人々が大勢いる、彼らには仕事が必要です。
被災地で育つ子供たちや青年には、健全な地域以上に環境に対する配慮が必要です。
なのに大学、高校をはじめとする教育機関などでは重要な機材が破壊され、失われてしまいました。
次代をになう子供たちには、できる限り最大のことをしなければなりません。
あなた方の「政治家」はこのために今、懸命に働いていますか?
そうでないなら、あなた方は声をあげなければなりません。
ほんとうの政治をしてくれ、と。
国民のための。
あの震災からひと月程して、25歳になる娘が女房殿に言ったのは
「食べ物が無くなって、本当に怖かった。」
という感想だったそうです。
考えれば、昭和60年に生まれた娘が何か「売っていないから、手に入らない。」という経験などはしたことが無いかもしれません。
仙台市、4月14日朝8時30分、仙台市北東の利府町・多賀城市・塩釜市方面から仙台市中心部に向かって車の大渋滞が発生していました。
仙台市から宮城県の北東方面、仙台 ~ 多賀城 ~ 塩釜 ~ 松島 ~ 石巻を結んでいたJR仙石線が3月11日の大震災で沿岸部を中心に壊滅し、全線不通となりました。その後一度、仙台 ~ 松島あたりまで復旧したものの、4月7日夜中の大地震でふたたび全線不通となり、現在に至っています。
『3月11日の東日本大震災で津波に流された遺体の一部や家屋、車などが太平洋を渡り、1-3年後には米西海岸に達するという見通しが発表された。
津波で流された被災地・東北地方の家屋を含むがれきは現在、太平洋海流 に乗り、米国方面へ流されている。米ABC放送は8日、「米海軍第7艦隊が、津波で流された車や家屋などからなる巨大な「がれきの島(garbage island)」が太平洋を渡り、米西海岸に移動しているのを発見した」と報じた。津波によりできたがれきの島には、今回の大震災で流された犠牲者の遺体をはじめ、家屋20万棟・トラクター・トレーラー・船舶が含まれているという。
米国の海洋学者カーティス・エッベスマイヤー博士は「今回の津波で流された遺体のほとんどは海に消えてしまうだろうが、運動靴のように硬いものに包まれた足など遺体の一部は水に浮かび、米西海岸の方へと移動し続ける可能性もある」と語った。
複数の科学者は、こうした「がれきの島」について、1日に約16キロずつ移動し、早ければ1年、遅くても3年以内に、海流に乗りカリフォルニア・オレゴン・ワシントン州など米西海岸に漂着するものと予測している。船・車・家屋のがれき・プラスチック製の人形など浮力を受けやすい物体が先に漂着し、その後にプラスチックのいすや漁の網なども米海岸で発見されるとみられている。また、一部のがれきはその後も海流に乗り、ハワイ・東南アジア方面へも流れていくと予想される。』
このがれきの島、長さが111km、面積はアメリカのテキサス州3個分と言いますから、気の遠くなるような大きさです。かつて仙台市の震災ごみ置き場について書いた時、『悲劇が積み上げられている...』旨の事を書きました(http://kobajun.biz/?p=234)が、がれきの島には多数の遺体が含まれている可能性があるところから、悲劇の大きさは計り知れないものがあります。
日本には『船幽霊』という言い伝えがあります。科学的考察も一部では行われ、自然現象の偶然が生む産物と言う解説もなされています(詳しくはWikipedia『船幽霊』の項をご参照ください)。
しかしこの大震災を経た今、船幽霊とは1,000年前に起きた貞観大地震・大津波が生んだ『がれきの島』を見た当時の人が考えだしたのでないか、と考え込んでしまいました。津波の犠牲者の多数の遺体を含んだ長さ100km超える大量の漂流物の集まりが、行くあても無く太平洋上をさまよっている様は、悲劇、といってもあまりに大きすぎて言葉を失ってしまいます。
今度の大震災では、想像を絶する悲劇が数限りなく生まれてしまいました。
それに比べれば、渋滞の中、車を進ませようとする人々には行くあてと進む目的があるはず。ある意味すでに立ち直っている人々である、という事もできるでしょう。
いら立ってむやみにクラクションを鳴らしたりせず、空いている方の手を、未だに立ち上がれずにいる人々に差し伸べられないか、お考えいただくわけにはいかないでしょうか?
日本人程、英語が苦手な国民はいない、とよく言われます。
なぜでしょうか?
●日本語が『膠着語』と言って、世界的にも数少ない文法を持つのも理由のひとつかもしれません。
●英語を『勉強』にしてしまったのも原因かもしれません。
●外来語をカタカナで表記する、という便利なウラわざがあるため、スペルを覚える機会が減ってしまうからかもしれません。
●母国語が世界一多く文字の種類を覚えなければならない言語のため(漢字 + ひらがな + カタカナ)、普通の人は英語まで手が回らないから?
●日本語には『R』や『V』の発音が無いので、日本人にとっては英語は非常に発音しづらい...ナドナド
すべて当てはまるのだと思います。
では、苦手の克服法はあるでしょうか?
最も正しい答えは、
「英米人なら5歳の子供でも英語を話す。要は慣れればいい。」
その通り。でも、慣れるにも日常使う機会なんて我々日本人には中々ありませんよね。
面白いのはオランダ人の多数は母国語であるオランダ語のほか、英語とドイツ語を自在に操るそうです。オランダはベルギーと一緒にもともとスペインの植民地だったのはご存知ですか?その後、独立して大航海時代(15世紀中ごろから17世紀中ごろ)の主役の1人になり、日本の長崎に出島を築いたりするわけです。その国際性豊かな感覚が、他国語を自然に身につける習慣を育んだものと思われます。
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まず次の3つの言葉を理解してください。
【1】科学
科学的な方法の古典的な基本は、17世紀にデカルトが『方法序説』で示した以下の原則である。
• 明瞭判明の規則:明らかに真理と認められたものだけを判断の基準とする。
• 要素分解:解決可能な要素に分解して考察する。
• 具体から抽象へ:単純なものから複雑なものへと順番に認識をすすめる。
• 総合:見落としがないことを十分に確かめて、完全な列挙と再構成により全体を再構成する。
【2】デマゴーグ
【3】衆愚政治
有権者の大半が知的訓練を仮に受けていても適切なリーダーシップが欠けていたり、判断力が乏しい人間に参政権が与えられている状況。その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな政策が実行される状況をさす。また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。
エゴイズムは自己の積極的利益の追及とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどを含む。
次に『福島県』という言葉からあなたが連想するものを思い浮かべ、もう一度【1】【2】【3】を読み返してみてください。
あなたは非科学的でもないし、エゴイズムとも関係ありませんよね...?
【1】【2】【3】ともにWikipediaより引用。一部割愛。
私の名はGaius Julius Caesar Octavianus Augustus(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス)、紀元前63年9月23日に生まれ、 紀元14年8月19日に冥界に入りました。76年生きたことになります。
暗殺されてしまった大叔父カエサル(シーザー)の後をついで、我が愛するローマに史上もっとも平和な - Pax Romana - パクス・ロマーナ時代をもたらした、と後世の歴史家の皆さんに評価していただきました。
私はこの度の東日本大震災という未曾有の災害に遭われた皆さんにぜひ一言、お話をさせていただきたくてペンをとりました。
私が生きた紀元前後のローマ帝国は史上空前のインフラ社会でした。ローマ帝国の威令が届く地中海世界は、まっすぐで舗装された街道が整備され、さらには水道網も張り巡らされていました。その他の制度・システムも整備されており、この部分では21世紀の皆さんの暮らしとさほど違ってはいませんでした。
当時の世界水準から見れば驚異的高水準にあった、と言えるでしょう。皆さんの国日本では、また歴史が記録されていなかったころの話です。
一部には奴隷制の社会ではなかったのか ? というご指摘があるかもしれません。
しかし歴史を正しくご検証いただければわかることですが、ローマ社会の奴隷の職業は家庭教師や料理人といったところが一般的で、蓄財によって一般市民になることも可能だったのです。鞭で打たれながら過酷な肉体労働を強いられる奴隷の姿は、昔のハリウッド映画が作り出した架空のものです。
なぜ、私がこのような話をするのか?
それはローマ帝国の「属州統治」が決して力ずく・権柄ずくのものではなく、地域・民族の慣習や生活スタイルを最大限尊重したものだったことをご理解いただきたかったからです。実質的に当時のローマは広大な地中海社会の首都でしたが、スペイン、フランス(ガリア)、パレスチナ(小アジア)、北アフリカの人々にローマ式の生活や社会を強制したことはありません。
私たちは地元の人々の意向を無視した統治を行うことによって、その地の民族の活力をそぎ、反抗を誘発し、その地が不安定になる。
結果として地中海社会の平和や安定、すなわち今日 Pax Romana と言われている状態が不安定化することこそ、第一に避けたいことだったのです。
東京辺りにいる○○評論家とか、○○先生などと称する人々が地元の心を無視して作り上げた構想、あるいは既にどこかにあるような街並や施設を東京以西の業者が商業ベースで提示するプラン、そんなものを実現させてしまっては、本当にあなた方が幸せに暮らせる社会ができない可能性が高いのではないでしょうか。
今後の東北地方の復興の中心には、その地に暮らしてきた人々が担い手となるべきです。
人間は責任感と自負心を持ったときにもっとも良く働く、ということを思い出していただきたいのです。
惨禍に見舞われ、今すぐに責任感や自負心を持て、というのは不可能のようにも思えます。
しかし震災の翌日から、満身創痍の身に責任感、自負心をあふれさせた東北の人々が、復興に立ち上がっていく姿が海外も含めたたくさんのメディアによって紹介されました。
東北地方日本人の皆さん、責任感と自負心を併せ持ったあなた方が、常に復興の中心にいるようにしてください。
そして誰の為でもない、あなた方の為のコミュニティーを自信を持って築き上げていってください。
技術的なことに加え、その人の心の持ちようが問われるスポーツ、それがゴルフ。
そのため、この稿を書いているkobajun氏はゴルフでラウンドをしても
「今日は満足した」
どころか
「今日はまあまあだった...」
どころか
「今日は、まあ...」
という日すら非常に少ないのです。
これが例えばテニスだったりすれば、パートナーの肩でもたたきながら
「いい汗かいたね。」
なんてことを言えるのも知れません。しかし、私はゴルフに関する限りこんなセリフは一度も言ったことがありません。
アメリカではラウンドした後、ゴルフコースの池の中にゴルフバッグごと『投げ捨てて』いくゴルファーすらいるそうです。もっともその日のうちに引き上げにくる人が、ほとんどらしいのですが...
ゴルフの何がここまで人を狂わせ、熱くさせるのでしょうか?!
私もずっとこのことを考えてきました。
得た結論は14本ものゴルフクラブを使い分けるところにあるような気がします。
例えば野球のバッター、バントをするのもホームランを狙うのも同じバットを使います。
ところがゴルフでは100ヤード、150ヤード、200ヤードを打つ時では使うゴルフクラブが違います。概ね10~15ヤード刻みでクラブを変えて行きます。
さらにゴルフクラブの商品説明を見ると、必ず書いてあるのが「ミスを最小限にとどめる工夫がなされている」云々。
こうして見れば、ゴルファーひとり一人、至れり尽くせりの道具を持ってコースに現れているはずなのです。
野球でピッチングやバッティングの『フォーム』が大切なように、ゴルフでもボールを打つ時のフォーム(ゴルフではスウィング と呼ぶ方が一般的)がとても大切です。レッスンや練習場に通うのも、ひたすらこのスウィングを良いものにするため、と言ってもいいでしょう。
たどり着くところはパターを除く13本のゴルフクラブを、同じように最も合理的にスウィングできるようにすることです。
そのため最も大切になるのが、よけいな小手先の動きを封じ込めること。
ゴルフは距離の調節と方向取りが命のスポーツ。でもそれは実はコースに13本も持って行く、最新式のクラブがやってくれるのです。
そのため現代のプロ・ゴルファーは、徹底的に合理的スウィングを体に覚えさせ、さらに筋力を鍛えることで身に付いたフォームのパワーアップを図ります。
この道具の進化 + 合理性の追求 + 筋力のアップ = により、近年のプロゴルファーの打球の飛距離の伸びは驚異的レベルに達している、と言われています。
一方情けないのが私のようなアマチュア、中でも練習量そこそこ、月のラウンド数もそこそこ、というアマチュア・ゴルファーです。
まず、道具ですが、ほとんどプロと同じ道具を使っています - ただ、筋力その他が足りない分、簡単にボールが飛ぶようにはなっています。
そして、一番足りないのが合理性。
レッスンなどで一応合理的なスウィングを教えられても、そこに客観的に見ればとんでもないアレンジを加え、「あり得ない」スウィングをしているゴルファーを良く見かけます。
一番多いのはあらゆる関節・筋肉に力を入れてリキム人。体のよけいな場所に力を加えれば、体の動きがぎこちなくなるのが当たり前なのに、結果、最も弱い部分からバランスが崩れて、予測もつかないタマが飛び出し、落胆したり赤面したり...
私の知人はゴルフ練習場で真上にボールを打ち、そのボールがキン・コン・カンと跳ね返ったあげく、後ろの打席の人の足下に「ブスッ!」と突き刺さったそうです。知人は後ろの人に
「あんた...帰れ!危ないから帰ってくれ!」
と言われたそうです。
次が「よくそれでボールが打てるなぁ」という体勢から、手先を器用に舞わせ、無理矢理ボールに当てている人。でもきわめて複雑な動きが組み合わされているので、成功率が低くならざるを得ません。
シューベルト交響曲第9番【ザ・グレート】。
作曲家のシューマンが「天国的に長大」と表現した、天国にいるような幸せな気持ちに浸っていられるこの曲を聴いている長い時間は、クラシック音楽ファンにとってはまさに至福の時です。次から次へと繰り出される魅力的なメロディの数々、どれをとってもすぐに口ずさめる程で、それが奔流のように流れ出すこの曲は音楽ファンのみならず、指揮者にも愛されています。フルトヴェングラー、B.ワルターを始め、夭折したケルテスやシノーポリまで、たくさんの「名演」が残されています。ただし、オーケストラ、特に弦楽パートにとっては「重労働」を強いられる曲のようで、楽団員には敬遠されがちだということを聞いた事があります。
シューベルトはベートーヴェンが元気で活躍している頃、「すねて」いた、と言われています。
曰く「ベートーヴェンのあとで、何が出来るだろう」「あらゆる分野で、ベートーヴェンは他の追随を許さない傑作を作り続けている。これでは自分が活躍する場が無いではないか?!」と。
ベートーヴェンばかりが脚光を浴びていることに反発しつつも、ベートーヴェンが不世出の作曲家であることを誰よりも理解していたことが解るエピソードです。
実際、交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノソナタなどにおいてベートーヴェンの作品の独創性と完成度の高さは群を抜いていました。後世の私たちが見れば、音楽はベートーヴェン「以前」と「以後」でまったく異ってしまっていることが解ります。ベートーヴェンの天才性は他の追随を許さないものでした。シューベルト自身(自分でそう思っていたかどうかはさておき)天才であったために、この辺のところはよく理解できたのだと思います。
このためにシューベルトとしては、ベートーヴェンがあまり作品を残さなかった声楽の分野に没頭したと言われています。よく知られる「野ばら」「菩提樹」を始め、声楽についてはシューベルトを外しては音楽史が成り立たない程、数多くの優れた作品を残したのです。
しかし、ベートーヴェンは死ぬ間際、人に頼んでシューベルトをわざわざ呼んでもらい「後のことを託せるのは、君以外にはいない。」と「遺言」します。
このことに感激したシューベルトは一念発起、交響曲【ザ・グレート】を一気呵成に仕上げた、と言われています。しかし、シューベルトは結局、ベートーヴェンの死の翌年にたった31歳で亡くなってしまいました。死因は腸チフス。
普段から売春宿に通いつめ、梅毒を患ったりしていたシューベルトの私生活は荒んでおり、その死とともにたくさんの作品が散逸してしまいました。その中にこの交響曲第9番【ザ・グレート】も含まれていました。
4月11日月曜日。
『あの日、あの時』は3月11日午後2時46分18秒。
ちょうどあの忌まわしい東北太平洋沖地震から、まる1ヶ月が経過したことになります。
そしてこの日の朝、世界中のゴルフファンが注目するマスターズが決着しました。
優勝したのは南アフリカのカール・シュワーツェル(英語読み・たぶんオランダ系南アフリカ人なので本来ならカルル・シュワルツェル)という26歳の若手。
日本人にはちょっと馴染みの無い選手ですが、話題のタイガー・ウッズは4位タイ、石川遼君は20位タイという成績でした。
今回決勝に進出したのは49人、しかも世界より選りの49人中20位ですから、20位タイの成績は立派です。
ただ、欲を言えばもう一打少なければ15位タイになり、来年のマスターズ出場も決まっていました。でも遼君のことですから、今年の日本ツアーで来年のマスターズ出場に充分な成績を残してくれるとは思いますが...
そして、松山英樹君。
今回のマスターズには世界から6人のアマチュアが出場し、松山君たった一人が決勝ラウンドに出場したことは一昨日の原稿に書きました。
彼の最終成績は27位。本人は「16位以内を目指し、来年もここ - オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ - に来たい。」と言っていましたので、惜しくも届かず、という結果でした。
しかし、初出場のアマチュアでアンダーパーという成績は世界に誇れる内容です。
そして彼は仙台の東北福祉大の現役大学生。
東日本大震災の被災地のど真ん中から参加し、プロでさえスコアを崩してしまうマスターズという大舞台の精神的重圧に耐え続け、期待以上の活躍をしたことは、今回世界中の報道機関が伝えた、廃墟の中で互いを助け合う『尊敬すべき東北日本人』に対する評価をさらに高めてくれました。
そして同じ朝、日本の統一地方選挙の結果が出ました。
結果を見ながら、台湾一の親日派、李登輝元国民党総統の日本を評した
「超A級の国民とC級の政治」
という言葉を思い出していました。