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ザ・バンドのリヴォン・ヘルム逝く…咽喉ガンで死去

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「最後までロビー・ロバートソンを許す事はできなかった…」

デイヴィッド・ブラウン / ローリング・ストーン紙 / アメリカNBCニュース 4月20日

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ザ・バンドの ヴォーカル担当、そしてドラマーのリヴォン・ヘルムが4月19日ニューヨークで咽 喉ガンのため亡くなりました。71歳でした。

「彼は友人たちやバンドの仲間たちに見守られながら19日の午後1時30分、安らかに息を引き取りました。」
長年リヴォン・ヘルムのバンドのギタリストをつとめたラリー・キャンベルがローリング・ストーン紙に語りました。
「そこには彼の友人全員が集まっていましたが、リヴォンは彼らが集まるのを待っていたかのようでした。友人たちが帰ったちょうど10分後、彼は私たちの目の前で静かに息を引き取りました。2日前にも一時危篤に陥ったのですが、その時は何とか持ちこたえたのです。彼は友人や仲間たちに、ちゃんとお別れを言いたかったのかもしれません。リヴォンは友人や仲間を愛していました。そして私たちも彼を愛していました。」

ザ・バンドの名曲の数々で印象的な歌声を披露したリヴォン・ヘルム、『オールド・デキシー・ダウン』『アップオン・クリップル・クリーク』『ラグ・ママ・ラ グ』、そして代表曲の『ザ・ウェイト』。
その彼は1990年代後半に咽喉ガンと診 断され、28回もの放射線治療を行いましたが、最終的に彼は再び歌えるようになっていました。
しかしここ数週間はニュージャージー州モントクレアや4月27日開催予定だったニュー オーリンズ・ジャズフェスティバルなどでの演奏予定など、複数の公演をキャンセルしていました。

彼の娘エイミーと妻サンディは17日火曜日、リヴォンのウェブサイトに以下のメッセージを掲載しました。
「今リヴォンは、ガンとの闘いの最終ステージに立っています。どうか彼のために祈ってあげてください。愛を贈ってあげてください。そうすれば彼はこの局面も何とか切り抜けることができると思います。彼の人生は音楽を愛する人々とファンのみなさんのおかげで、大変幸せな充実したものでした…。そして、レヴォンは何よりも演奏することが大好きでした。その場所を音楽で埋め尽くし、ビートに乗って誰もが踊れるように、ステージに上がるとき、リヴォンはいつもそのことを願っていました。」

1940年5月26日アーカンソー州で生まれたリヴォンは、文字通りロックンロールの誕生の場に居合わせることになりました。
ティーンエイジャーとして、彼はエルヴィス・プレスリー、リトル・リチャード、ジョニー・ キャッシュ、ジェリー・リー・ルイスのコンサートに出かけました。そしてジェリー・リー・ルイスのコンサートで見たドラマーのドラマー、 ジミー・ヴァン・イートンに触発され、ドラムを始めることにしたのでした。
もっとも彼はマンドリンやその他の弦楽器の演奏も得意になりました。

1960年に彼はロカビリーのロニー・ホーキンスのバックバンドに参加、このバンドはやがてロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、リック・ダンコ、ガース・ハドソンにドラマーとしてレヴォンを加えた5人組、ザ・バンドに発展していくことになります。

当時のバンド名は『クラッカーズ&レヴォン&ホークス』でしたが、その後ロニー・ホーキンスの下を離れました。
そしてこのバンドの実力に関する評判を聞きつけたボブ・ディランと出会うことになりました。
このバンドはカナダとアメリカのニュージャージーの両方で活動していましたが、彼らのス テージを見たボブ・ディランはリヴォンとロビー・ロバートソンに自分のエレクトリック・バンドに加わるよう勧誘しました。

リヴォンは当時を振り返り、1993年に回想録『火の車』の中に以下のように記しました。
「ボブ・ディランのことは、当時はよく知らなかった。彼のことはウディ・ガスリーを信奉するフォークソングのシンガー&ソングライターだと思っていた。」

ロバートソンとリヴォンは物議をかもし、盛大なブーイングを浴びたディランのニューヨークのフォレストヒルズ・テニス・スタジアムで行われたコンサートの際のエレクトリック・バンドのメンバーでした。
その後バンドの多くのメンバーは、ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』などで演奏し、1966年には彼と一緒にツアーを行いました(ただしディランのフォーク・ファンからの執拗な敵意にうんざりしたリヴォン・ヘルムだけは、1965年に一時脱退しています)
間もなく『ザ・バンド』として独立することになるメンバーとともに、ディランはオートバイ事故を起こした後のウッドストック・コンサートでのカムバック公演に臨みました。
この公演に参加する前、リヴォンたちは、後に彼らのスタイルになる、アメリカの伝統に根差す音楽の萌芽がみられる、画期的な 『地下室テープ』を制作していました。

やがてザ・バンドして彼らはキャピトルレコードと契約し、2枚の代表作となるアルバム『ミュージック・フロム・ビッグピン ク』(1968年)と『ザ・バンド』(1969年) をリリースしました。
ロバートソンは、バンドのメインのソングライターでしたが、リヴォン・ヘルムが一度聞いたら忘れられない魅力的なただみ声で歌うことにより、カナダ生まれのロバートソンの曲が見事なアメリカの伝統音楽として命を吹き込まれることになりました。
リヴォンはまた、ロック・ミュージックの世界で『歌う』ドラマーの先駆者の一人でもありました。

1976年、ロバートソンが提案し、『ザ・ラストワルツ』として有名な解散コンサートを行い、ザ・バンドは解散することになりました。
このコンサート以前にも、そして回想録『火の車』の中でも、解散には頑強に反対していたのがレヴォン・ヘルムだったのです。
「私はまた一人になのはいやだった。ザ・バンドを解散するなんて、とんでもない話だった。」
彼はしぶしぶ解散に応じましたが、以後ロバートソンとの関係は元通りにはなりませんでした。

一連の出来事の後、レヴォンは彼自身のバンド『リヴォン・ヘルム&RCOオー ルスターズ』を結成し、古くから仲間だったドクター・ジョン、スティーヴ・クロッパーやブッカー・T・ ジョーンズなどと共演、いくつかのソロアルバムを発表するなどしましたが、どうしてもザ・バンドへの未練を断ち切ることができませんでした。
そこで彼はリチャード・マニュエル、リック・ダンコ、ガース・ハドソンとともに、新生ザ・ バンドを再結成、1980年代初め3枚のアルバムをレコーディングしました。

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1986年にマヌエルが首つり自殺、その後もしばらく新生ザ・バンドの活動は続きましたが、1999年に心不全でリック・ダンコが死去、ここに至ってついにザ・バンドは永遠にその活動を終えることになりました。
この時点でリヴォン自身にも咽喉ガンが発症していました。
回復後リヴォンは彼の自宅の改装した納屋とウッドストックにあるスタジオで、『ミッドナイト・ランブル』と名付けた内輪のコンサートを行いましたが、これには彼自身の医療費を捻出する意味もありました。

目立たない、森の中のパフォーマンスでしたが、評判を聞きつけロック界の大物も集まるようになりました。エルヴィス・コステロ、ナタリー・マーチャント、グレイトフル・デッドのフィル・レッシュ、そしてドナルド・フェイゲンなども、リヴォンのバンドと共演を果たしました。

この『ミッドナイト・ランブル』は思わぬ成果を生むことになりました。
ここから生まれた2007年発表の 『ダート・ファーマー』は、『ベスト・トラディショナル・フォーク部門』でグラミー賞を受賞しました。
「『ミッドナイト・ランブル』をやってて本当に良かったよ。賞がもらえる程に声も出るようになったしね。」
2009年にレヴォンがローリング・ストーン紙のインタビューにこう答えています。

ザ・バンドは1994年にロックン ロールの殿堂入りを果たしましたが、レヴォンはロビー・ロバートソンとの確執がまだ解消されていないことを明らかにし、出席しませんでした。
数年後、ロビー・ロバートソンがローリング・ストーン紙にこう語りました。
「私はリヴォンが姿を見せるものと思っていました。あの晩誰かが、リヴォンが思い直して家に戻ってしまったと話していました。何てことだ、彼がいてくれたらどんなに良かったか。私はそう思いました。」

ヘルムの咽喉ガンは、彼の歌声から大切なものを奪い取ってしまいました。
ステージ上や最近のインタビューで、彼の声は力強くもありましたが、一方で低音の魅力は明らかに失われてしまっていました。
彼の最後となったステージのうちのひとつ、13人編成のバンドと一緒に行った3月19日 アナーバーのコンサートでザ・バンドの名曲『オフィーリア』を彼が歌った時は、聴衆の間にどよめきが起きました。
「私は健康増進運動のモデルにはなれそうにないよ。そんなに病状は悪くは無いんだが…。これからは曲作りに専念したいね、それをしている限りはとっても気分がいいからね。」
彼が昨年、ローリング・ストーン紙のインタビューにこう答えていました。+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

今日は【 母なる地球と父祖の土地 – 再び忍び寄るナチの足音〈後編〉 】をお送りする予定でしたが、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムが亡くなってしまった、というニュースが飛び込んできたたため、急遽こちらをお伝えすることにしました。

ザ・バンドの『ザ・ウェィト』が自分の青春時代の何事かを画した、そんな方が結構いらっしゃるのではないでしょうか。

私がそれこそ音楽にのめり込んだ1970年代は、まさにロック・ミュージックの全盛期でしたが、そのときこんな言い方がありました。
「ザ・バンドからピンク・フロイド(またはエマーソン、レイク&パーマー)まで」
ものすごく泥臭いアメリカン・ロックのザ・バンドから、ピンク・フロイドやエマーソン、レイク&パーマーのプログレッシヴ・ロックまで、ロック・ミュージックの幅広さを表現した言葉です。

その一方の雄がザ・バンドでした。
私自身は特別ザ・バンドのファンだった、という意識は無いのですが、ライブラリにはやはり4、5枚はアルバムがあります。

リヴォン・ヘルムの訃報に触れたとき、また改めて一つの時代の終わりを痛感しました。

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