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【 フクシマ – 消えてしまう故郷・消えてしまった希望 】

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原発事故が消滅させた町・大熊町

マーティン・ファクラー / ニューヨークタイムズ 11月25日


戦国時代からこの地で栄えてきた会津若松市、そのまわりをぐるりと取り囲む山々に、冷たい北風が初雪を運んできました。
昨年の福島第一原発の事故発生以来、避難民としてこの地に逃れてきた人々が今、生まれ育った故郷に再び戻るという希望を失いつつあります。

福島第一原発が立地する大熊町の町長は、いつの日か故郷の地の放射線量が充分に安全と言えるレベルにまで低下すれば、全町民を率いて帰還すると誓いました。
大熊町の町民は2011年3月11日、巨大地震、巨大津波が福島第一原発の冷却装置を稼働不能にした後、急いで逃げ出さなければなりませんでした。

政府が進める除染作業も思うように進まず、そして福島第一原発の原子炉が再び放射能汚染を引き起こす危険が続く中、大熊町役場の職員はこの9月、最低でも10年間は住民の帰還は不可能であるとの結論を出さざるを得なくなりました。

大熊町から避難した住民の中で、もう二度と故郷に戻ることはできないのではないか、という悲観的な考えが広がり続けています。

福島第一原発から95キロほど離れた会津若松市内にある仮設住宅団地では、高齢の住民のほとんどから、もう一度故郷を再建する時間も体力も、もう残されてはいないという声が上がっています。

そんなことをするより、仮設住宅を一刻も早く引き払い、福島第一原発からはるかに離れた場所で、昔なじみの人々が寄り添って暮らせるようにしてもらった方が良いという意見が多数を占めるようになりました。
「私も『故郷に帰りたい!故郷にある自宅に戻りたい!』と言い続けてきた人間の一人です。」
福島第一原発の南側7~8キロの場所で米作農家をしていた、78歳の飯田とし子さんがこう語りました。
「でも、帰れるようになるまで何年もかかることが解りました。その頃はもう、私も生きてはいないでしょう。」


その頃はまだソビエト連邦だったウクライナで1986年に発生したチェルノブイリの事故以来、最悪となった福島第一原発の事故。地震と津波により3基の原子炉がメルトダウンしたこの事故では、大量の放射性物質が環境中に放出され、現在でも159,000人もの人々が避難生活を強いられています。
その中で多くの人々が、飯田さんのようなあきらめの気持ちを共有しています。

政府や関係する政府機関が改めて福島第一原発の事故による汚染はそれ程深刻なものでは無いと住民側に説明し、高額な費用をかけて除染作業を始めた時点で、逆に多くの住民たちはこの除染が終わるまでには何十年という時間がかかり、故郷の大熊町が事故以前の元通りの姿に返るまでには、数世代を要するという事実を受け入れることになりました。

「誰もが帰りたいと思っています。しかし私たちは、明らかになった事実と向き合わなければなりません。」
福島第一原発の原子炉建屋で働いたこともある、75歳のすでに引退した大工の曽我浩一さんがこう語りました。
「ソビエト連邦の例を見ればわかります。チェルノブイリ近くの住民たちは、帰ることが出来ましたか?」

こうした諦めにも似た気持ちは、故郷を追われた11,350人の大熊町の住民たちに、社会生活に対する希望を失わせることになりました。
大熊町は福島第一原発の20キロ圏内にある9つの市町村の内のひとつです。

およそ1ヵ月の間、学校の体育館やその他の避難所で暮らした後、200km以上離れた場所にある東京などにまで避難した住民を除く、約4,300人の人々と町役場の職員などが会津若松市の仮設住宅に移って来ました。
大熊町の渡辺利綱町長は、すぐに町内の比較的放射線量が低い地区に、住民を帰還されるための計画づくりに着手しました。
計画では、帰還した人々は何もかもが破壊された後の荒野に入植するかのように、通りの一本一本で、あるいは建物のひとつひとつで除染作業が進むのに合わせ、徐々に生活空間を広げていくことになっています。

昨年の秋、大熊町内の比較的安全な場所に町を再建することを訴えた渡辺氏が町長に再選されたことで、この計画は事実上住民の了承を得たことになりました。


2012年だけで3,800億円以上を費やすという環境省による除染作業が開始され、この年の初め、住民の期待は高まりました。
大熊町を始めとする福島第一原発の周辺市町村で、少人数の作業員によるグループが地面の表面を削り取り、木の枝を切り払い、建物の外側を洗浄する作業が続けられました。

しかし2012年夏、環境省は大熊町については、これ程の予算を費やした除染作業によっても、思ったほど放射線量は下がらなかったことを公表しました。
そして環境省は少なくともこれから5年の間は、人が住み暮らすことは不可能であると公表したのです。
この発表を受け、大熊町役場は、住民の帰還目標を当初の2014年から2022年に変更せざるを得なくなりました。

「次から次へと悪い知らせばかりがもたらされ、人々は打ちひしがれ、あきらめるつもりになっています。」
会津若松市内で600年の歴史を持つ鶴ヶ城の一画にある、かつての女子高の建物の中に臨時の町役場の中で、今年65歳の渡辺町長がこう語りました。
「住民の帰還計画だけが、この先へつながる唯一の希望なのです。大熊町が消滅しないための、ただ一つの手立てなのです。」

渡辺町長は住民帰還計画を支持する人が、減り続けていることを解っています。
今年9月、役場は避難している住民に対する調査を行いましたが、帰還を希望すると答えた住民は、全体の11%にあたる3,424人だけでした。
これに対し、もはや期間を望まないと答えた住民は、全体の45.6%に昇りました。
理由は放射能汚染でした。

帰還を困難にする新たな知らせが今年11月、環境省によってもたらされました。
環境省は渡辺町長に対し、3.11の被災地のがれき、そして除染によって出た低レベル放射性廃棄物を一時的に保管する施設を少なくとも9つ程度、大熊町に建設したいと伝えてきたのです。
故郷である大熊町が核廃棄物処分場になるのなら、もはや帰還は望まない、多くの避難住民がこう語りました。


かつてのサッカー場の中に、簡易組み立て式のアパートが、あたかも収容所か何かのようにずらりと並ぶ仮設住宅で、大熊町の住民が、防護服と防護マスクに身を固め、被ばく線量について厳しく監視されながら、見回りの品々を取りに一時間だけ自宅に戻ることを許された時のことを話してくれました。
それから何か月も過ぎてしまった今、もう気持ちの上では、故郷に帰り、町の再建を一から始める気にはなれないと、多くの住民が話しました。
「私の家はネズミの住処になっていました。」
こう語るのは85歳の泉ひろ子さんです。
「家に帰るたび、だんだんそこが自分の家で無くなっていくように感じます。」

他の多くの住民が、数は多くは無いが、働き盛りの住民がバラバラにならないように、何か対策をとるべきだと語っています。
若い世代の多くの人が会津若松市内に就職口を見つけるなどし、新たな生活を始めています。

「時間がかかり過ぎれば、結局大熊町は消えてしまうことになるでしょう。」
63歳の医療関係の仕事をしていた曽我春江さんがこう語りました。

かつて大熊町があった場所には、もう戻りたくないという人々のため、役場は福島第一原発の避難区域の外に、新たな大熊町を建設する構想を今年9月、明らかにしました。
新しい大熊町には、役場、消防署、警察署など、一通りのものが揃い、5年以内に建設を始めるとしています。

渡辺町長自身は、何としても元の大熊町に戻りたいという気持ちを抱き続ける側の人間でることを認めました。
解っているだけで19代に渡ってこの場所で米を作り続け、先祖代々の墓が残る故郷。
彼の心の中にある儒教的習慣も相まって、この場所を捨てる気にはどうしてもなれないと語りました。


「私たち一族はこの地で1,000年の間暮らしてきました。」
渡辺町長が語りました。
「いつの日か、代々続いたこの農地で私自身が育てたコメをもう一度かみしめる、私はそう誓ったのです。」


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選挙で一つ覚えのように「復興!復興!」と叫ぶ候補者。
しかし危惧されるのは、彼らの頭の中にある「復興」です。

この記事にも出てくる被災者の人々の声を、丹念に聴くことも無く走り出す復興というものは、どんなものなのでしょうか?
ブルドーザーやパワーショベルがガラガラ走り回る復興しか、頭の中には無いのではないでしょうか?

被災者の方々が望んでいるのは、平和で穏やかな暮らしを取り戻すこと。
そしてまず「心の復興」のはず。
それには福島の人々を「被災者」としてひとまとめにするのではなく、ひとつひとつの人生を丹念に立て直す、地味で誠実な取り組みこそが必要だと思います

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【 冬景色 】

アメリカNBCニュース 12月9日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

アラスカの南西部を写したこの写真は、11月21日、NASAのアクア衛星がMODIS撮影機で撮ったものです。


イギリス、レスターシャー・オートン村の畑を覆い尽くした霜。11月30日。


12月8日、ドイツのハルツ山脈のブロッケン・マウンテンにある目的地目指して、ブロッケン鉄道の電車が雪でおおわれた松の間を蒸気を噴き上げながら走りぬけていきます。


トビアスWendl、正面とダブルス・リュージュ・ワールド・カップの間の氷水路の下流のドイツ速度のトビアス・アールトは、12月8日にアルテンベルク(ドイツ)で競争します。 彼らは、競争に勝ちま
12月8日、ドイツのアルテンベルクで開催されたダブル・ルージュのワールドカップで、優勝したトビアス・ウェンドル、トビアース・アールトの組が疾走する瞬間。

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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