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【 ヒロシマ、その心の傷の大きさ、そしてその深さ 】《第3回》

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所要時間 約 8分

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相次いで襲う原爆の後遺症としか思えない、様々な症状に苦しめられる日々
その後の人生を最もひどく蝕んだものは、当時は放射線によるものだとは考えも及ばなかった心因性の症候群
原爆の後遺症に苦しむ日々は、原爆を投下されたその時よりもひどいものになった

 

サラ・スティルマン / ニューヨーカー 2014年8月12日

広島平和記念資料館内
被爆者となってしまってから数十年間、富子さんは相次いで襲う原爆の後遺症としか思えない様々な症状に苦しめられることになったのです。
最初に症状が現れたのは、目、そして耳、正常な機能が失われて行きました。
そして内蔵は常に冷え切っているように感じていました。
歯が抜け始め、40代には総入れ歯になっていました。

しかし彼女を最もひどく蝕んだものは、当時は放射線によるものだとは考えも及ばなかった心因性の症候群でした。
その心に受けた傷の一例として、富子さんがこんな話をしてくれました。
「30年あるいは40年間、私は雷鳴と稲妻がとても怖くて仕方がありませんでした。」
「雷が鳴って稲妻が光ると、私は完全にパニックに陥ってしまい、自分を抑えることが出来なくなってしまうのです。」

そして4人の娘たちを育てるときにも、彼女は普通の母親とは異なる大変な思いをしなければなりませんでした。
「子供たちは私を理解できませんでした。私はまるで無力でした。」
これは子供たちがまだ幼い時分、富子さんが原爆で受けた心の傷が原因でほとんど毎日のようにパニックに襲われた当時を思い出し、語った言葉です。

広島資料館
夜、夢にうなされながら富子さんは叫んでいました。
「地球がこわれる、地球が落ちていく!」

「当時は何が原因でそうなってしまうのか、全く分かりませんでした。」
「口ではうまく説明できませんでした。口を開こうとすると、恐怖のために気を失ってしまうのです。」
隣に座ったみのりさんが相づちを打ちながら、富子さんの肩を優しくなでていました。

「朝になって寝室に入っていくと、激高している母の姿がありました。怒りにまかせ何かものを投げつけていたのを覚えています。」
「私たちが幼い時、母が笑う声を聞いたことがありませんでした。
母はいつも物静かで、そして弱々しい感じがしていました。」

当時を振り返ってみると、富子さん自身もその子供たちも、こうした症状や振る舞いの原因が原爆にあるのではないかと公然と口にすることはありませんでした。
特筆すべきことは、富子さんが自分が苦しんでいる症状と被爆体験とが容易には結びつかなかったことだと語りました。

広島04
富子さんは心的外傷後ストレス障害、砲弾ショック(戦争神経症)、あるいは古典的な神経障害症状(悪夢、フラッシュバック、極度の不眠症)についてはほとんど知識を持っていませんでした。
彼女は長い間こうした精神症状と自分の経験とは別のものだと考えていました。
「私がこうしたきちがいじみた行動をとるのは、毎年の事でした。でも家族はそんな私に優しく接してくれ、いたわってくれました。それでも私のこうした行動が止むことはありませんでした。その瞬間は、自分で自分をコントロールできなくなってしまうのです。」

富子さんの主張によれば、彼女がなぜこうした行動をとるのか、そして次々と深刻な病気に見舞われるのか、ほんの数年前までまったく説明不能でした。
しかし自分でも気がつかないうちに、彼女の中では少しずつ19歳の年に体験させられた事件と結びつき始めていたようです。
「結婚生活に入った後、そうした行動をとる私に対し、家族がどなりつけることがありました。叩かれたこともありましたが、そんな程度では私を止めることはできませんでした。なぜなのかはわかりませんでした。しかし心の奥底であの日の出来事との関連が結びつき始めていました。きっとそうに違いない…原子爆弾、すべては原爆と関わりがあるのではないか…。」
「原爆の後遺症に苦しむ日々は、原爆を投下されたその時よりもひどいものになってしまいました。」

* * *
平和祈念資料館02
富子さんの孫娘のケニ・サバスはハワイ、そしてテキサス育ちです。
父はニュージャージー州に生まれ、海軍の犯罪捜査部の幹部でした。母親は台湾生まれのおしゃれ好きな外国語講師でした。
ケニは富子さんがオハイオ州で暮らすみのりさん(ケニの叔母にあたります)のもとに行く前、姉のジーナとともにおばあちゃんである富子さんと数年間一緒に暮らしたことがあります。

夏になると、家族は日本へ旅行に行くことがあります。

「おばあちゃんが容易ならない経験をしたことがあるのではないかと初めて気がついたのは、私が6歳の時の事でした。」
私が初めてオハイオで暮らす富子さんのもとを訪問した後日、ケニ・サバスは私にこう語りました。
「母と私はおばあちゃんと一緒に広島市の平和祈念公園に行きました。河畔を歩きながら母がおばあちゃんの話を翻訳してくれました。
『この川の水は人々が流す血で真っ赤に染まっていたわ。火傷した人が次々に川に飛び込んでいたけれど、その人たちの体から皮膚がぼろぼろ剥がれ落ちていたの。』」


「私たち家族は続いて市内の平和記念資料館を訪れましたが、そこには等身大のろう人形が展示されていました。その中に焼け焦げたボロ彫り衣服をまとい、皮膚が溶け落ちている姿で、爆心地から逃げ出そうとしている子供たちの人形がありました。」
「その子供たちは、まさに私と同年代にしか見えませんでした。」
ケニ・サバスがこう語りました。
「地獄のようなそのあり様に現在の広島市を重ね合わせることは非常に困難でした。私には理解不能の世界がそこにありました。」
「この人々を襲ったものの正体はいったい何なの?」

〈 第4回に続く 〉

http://www.newyorker.com/news/news-desk/hiroshima-inheritance-trauma
+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

前回の第2回掲載では公開時刻の設定を誤ってしまい、ご迷惑をおかけいたしました。
お詫び申し上げます。

被爆者の方の苦しみというものが想像を絶したものである事を、この記事を翻訳していて改めて実感しました。
原爆投下から70年近く経ち、隣国の台頭を口実に
「日本も核兵器を装備すべきである」
と声高に叫ぶ政治家がいます。

私個人の考えですが、外交的脅威の発生に対しまず最初に軍備強化を考える政治は、全くの『無能』を証明するものです。
複雑高等な戦略など考える頭がないから、とりあえず武器を振り回す事ばかりを考える。
それが核兵器となれば、もはや『論外』というべきです。

イギリスもフランスも核兵器保有国ですが、これらの国が核兵器を保有する事によりどのような『利益を享受』しているか、説明出来る方はいらっしゃいますか?

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