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【 がれきの中から立ち上がろうとする人々 : 宮城県石巻市 】[ガーディアン]

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所要時間 約 16分

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破壊のすさまじさに変化の兆しを見つけられない都市(まち)、遅れる一方の復興計画
官僚主義に支配された行政、時間を浪費してばかりの政治には相変わらず失望させられる
津波の恐怖、復興事業の遅れが住民の帰還を阻む

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 1月27日

石巻01
石巻駅周辺の通りは約3年前に東日本の太平洋岸を襲い、いくつもの市町村を破壊しつくした、東日本大震災による地震と津波の影響をあまり受けてはおらず、甚大な被害を被った場所にやって来たという印象を受けることはあまりありません。

取材のためクリスマスにこの場所を訪れたその夜、駅前のレストランからは酔っぱらった少人数のグループが、よろめきながら凍てついた舗道に出てきました。
シャッターが下りたままの商店街の単調さ、2~3ブロックおきに配置された漫画家石ノ森章太郎の登場人物たちの立像だけです。
彼らは市内にある漫画家としての業績を集積した石ノ森漫画館へと、石巻を訪れた人々をいざなっているのです。

このようにしないにいては解りにくい、東日本大震災によって石巻が受けた破壊の全容は、市内にある小高い丘の上に昇った時、はじめて明らかになります。

石巻市の中心部は消滅しました。

目の前には、平らにされてしまった不毛の土地が広がっています。
2011年3月11日の午後までこの場所にあったはずの建物は、押し寄せた津波によりことごとくが瓦礫(がれき)と化してしまいました。
津波によって平らにされてしまった場所には、400万トンを超えるがれきが置かれたままになっています。

場所によっては20メートルの高さにまでなった巨大な津波は、50,000以上の建物を破壊、あるいは損害を与えました。
津波が引いた時には、すでに3,162名の人命が喪われてしまっていたのです。
そして未だに約430名が行方不明のままになっています。

津波によって甚大な被害を受けた地区を中心に、石巻市内の完全な再建を果たすには、少なくとも10年以上の月日と1兆円以上の費用がかかります。

再建はまず、破壊された港湾施設、堤防、道路と橋などのインフラ設備から始めなければなりません。
これまで1,000億円が公共住宅の建設に、別に1,200億円が未だに仮設住宅で暮している15,000人の市民の住居を確保するために配分されました。

石巻02
日本の歴史上最悪の天災のひとつが襲ってから3年近い月日が経ちましたが、現状を見る限りほとんど何も変わっていないじゃないか!というつぶやきが思わず口から洩れそうになります。

しかし官僚主義に支配された行政、時間を浪費してばかりの政治には相変わらず失望させられる中、市井の人々の間からはかつての暮らしを取り戻そうとする自主的な動きに勢いが感じられるようになりました。

2012年6月、市内の商店と飲食店の経営者が集まり、仮設店舗でかつての商売を再現させる石巻元気復興センターがオープンしました。

「私たちは津波ですべてを失いました。この商店街は一日も早く元の暮らしを取り戻そうという決意から生まれたのです。」
ユミさんがこう語りました。

地元で獲れた魚の水産加工品販売を営む船岡さんは、次のように語りました。

石巻05
「ちゃんとした店舗が再建され次第、私たちはこの仮設店舗を撤退するつもりでいました。ところが再建計画は遅れに遅れてしまっているのです。
私たちは今も東京その他の場所から注文を受け取っていますが、その規模は震災前とは比較ならない程小さなものです。」

▽新たな姿、新しいビジネス

探検型の遊園施設、図書館、カフェ・バー、そして徒歩旅行者やビジネス客のための簡易宿泊施設さらには小規模な製造・加工施設のためのラボなども含めた、その他の取り組みも始まっています。
『タダイマイシノマキ』は、仮設住宅で暮す『お母さん達の「手しごと」製品の展示・販売』としてバッグ、財布、その他の品物を販売しています。
彼女たちには今のところ、他に収入の途はありません。

「私たちは始めに石巻市に援助を申し込みましたが、はかばかしい返事は帰って来ませんでした。なので自分たちで店をオープンさせ、前進する決心をしたのです。」
従業員の掘込渉さんがこう語りました。
「私たちは施しに頼りたくはありませんでした。そこで地元の人たちを巻き込んで工房を立ち上げたのですが、参加した人々は前向きに生きることが出来るようになりました。」

石巻03
2011年の災害発生以前から経済が停滞していた東北地方沿岸地区では、雇用機会の少なさは繰り返されてきた社会問題でした。
そこに襲いかかった津波は、さらに数千の石巻市内の仕事の口を奪ってしまいました。
現在は1人の求人に対し、2人の求職者がいます。

「十分な仕事がないため、若い人たちはこの街を出て行こうとしています。」
掘込さんがこう語りました。
「とりわけ漁業関係者の受けた打撃はひどいものでした。何割かの人は漁業に復帰しましたが、この地に留まることができたのはごくわずかに過ぎません。みんな最善を尽くしています。しかし震災による地盤沈下のため、大雨が降る度漁港が水没してしまう、それが現実です。あの津波は海と人々との繋がりを、断ち切ってしまったのです。」

橋の上の廃屋
石巻市役所で再建計画を実際に担当している堀内健一氏が広げた地図を見ると、これから10年という歳月を要するその事業の規模の大きさを、たちどころに理解することが出来ます。
石巻市役所の再建計画を担当する部門の副責任者である堀内氏は、地図の中で細長く広がる部分を指さしました。
かつてはこの場所に7,500人の人々が暮らす家が並んでいました。
しかしここは海岸線のすぐそばで、再び住宅建設を行うのは危険過ぎるという非難があります。
ここよりははるかに内陸の場所では住宅の建設が進んでいますが、その人員収容能力は今回の震災で家を失った人の数と比較すれば、小さなものでしかありません。

「震災で家を失った人々の多くは海岸線近く、あるいは北上川の支流に近い橋に住んでいました。」
堀内氏がこう語りました。
「こうした人々がかつてと同じ場所で暮らすのは危険です。この人々にどこに住んでもらうか決めなければならない、それが現在我々が直面している問題なのです。」

石巻市では2016年3月までに、4,000世帯分の住居を確保すべく作業を進めています。
しかし2013年末までに準備できた住宅は150世帯分に留まり、入居が完了したのは100世帯だけでした。
堀内氏は津波が再び襲う恐怖もあいまって、再建事業の遅れにより一部住民の二度と戻らないという決定につながっていることを認めています。

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「これからも様々な過程において、問題が発生することは覚悟しています。しかし災害前の石巻市の163,000人という人口を回復するまで、私たちは最大限の努力をするつもりです。」

建築の青写真を提出しても、複雑に入り組んだ官僚制度の仕組みのせいで、いくつもの建築許可申請がたなざらしのままになっています。
被災地で実務に携わっている担当者は、こうした遅れが建設会社による見積金額の増大につながり、いったん組み上げた予算を超過してしまう事態につながっているとの不満を漏らしています。

結局各被災地の担当者は、日本政府に対し予算の増額を求めなければならなくなりますが、その際に帰ってくる答えはいつも同じです。
『必要な金額はすでに支給済みです。』

「それから、我々はより多くのお金を求めるために中央政府に戻ります、そして、反応は以下の通りです: 『しかし、我々はあなたにお金をすでに渡しました」と、ホリウチは言います。

▽ 緊張感を絶やさない民間業者

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官僚機構が相変わらず機能しないのとは対照的に、無数の民間のプランナー、建築家、建築業者、そして金融の専門家などは遅れを取り戻そうと懸命に動いています。

数多くのグループの中、石巻の中小企業の再生に取り組んでいるのが「Architecture for Humanity」(「人間のための建築技術」の意味)です。

プルデンシャル財団が資金を提供するこのグループは、アメリカ東海岸のハリケーン・サンディ、そしてハイチ地震の被災地でも活発に活動しましたが、東日本大震災の被災地でも民間企業に呼びかけを行い、40近い提案の中から8つの事業計画を採用し、バックアップを行っています。

「ここ東日本大震災の被災地の状況は、1995年の阪神淡路大震災の場合とは明らかに異なっています。ただしそれにしても、再建プロセスの遅さは問題です。」
グループの一員である東北大学の技術系の大学院生である吉川昭信氏がこう語りました。

資金問題と官僚主義に加え、現場における協力関係の欠如も復興を妨げでいる、そう語るのは東京大学で都市工学部を専攻するクリスチャン・ディンマー准教授です。

「多くの市民活動が石巻で行われていますが、その目的も手段もスピードも、全てがバラバラなのです。」
ディンマー准教授がこう語りました。
「こうした活動を、有機的に連携させる仕組みが無いのです。現在はそれぞれがバラバラに動いているだけなのです。」

石巻04
ディンマー准教授はオンライン上で、津波の被害を受けた被災地の完全な地図を作り上げる際、協力した経験を持っています。
彼は移転を余儀なくされた人々にとって何より必要なものは、再建計画に関する、被災者の立場に立った懇切な、そして明快な説明だと考えています。
「行政による技術的課題が中心となった再建プロセスは、どうしても遅れがちになります。」
彼がこう語りました。

「しかし被災者はまずこれらの計画が、実際にいつ、どのような形になるのかを理解したいのです。 自分たちの生活を直接支配する問題だからです。」

3年前のそびえ立つように高い津波は既存の防波堤を乗り越えて市街地に殺到し、それまでの対策が不十分であったことが明らかになっています。
しかし現在、新たに設置されるべき防波堤の位置、大きさ、そして予算の規模に関する行政側と住民側の議論はこう着状態に陥っています。

宮城県の計画では、今回被害が大きかった地域については、まず海の中に防潮堤を設置、さらに海岸線に沿ってさらに高い防波堤を建設することにしています。
その後ろ側は道路をかさ上げした上で、住宅では無く商業施設を配置するとしています。
この道路は住宅を守るための、もう一つの防潮堤の役割を兼務します。

学校や病院のような公共設備は、内陸深い場所に建設されます。

防災庁舎遺構
「ある場所で防潮堤の位置と大きさを変更すれば、その周辺の防潮堤についても設計の変更が必要になります。この点が問題なのです。」
ディンマー准教授がこう語りました。
「この問題は非常に複雑です。ひとつの防潮堤を築くのに、いったいどれだけの合意を取りつける必要があるのでしょうか?そんなことは誰にもわかりません。便利なマニュアルなど存在しないのですから。」

石巻全体が、石巻駅前のような当たり前の日常を取り戻すまでには、さらに数年の月日を必要とするでしょう。
東日本大震災による大破壊は、都市を再編する機会を提供する一方で、計画のあまりの巨大さのため頭の痛い問題も多量に持ち込むことになりました。

仮設住宅に大量の住民が移住せざるを得なくなった状況は、震災前とは劇的に異なるコミュニティを出現させることになりました。

「私はあらゆる意味で新生石巻は、かつてとは全く異なる形になるだろうと考えています。」
東北大学の吉川氏がこう語りました。
「震災前は別々の場所で暮らしていた人々が、仮説住宅に入ることにより、否応なく新しいコミュニティを形成しなければならなくなりました。日々の生活の中で、人々はそのコミュニティを少しでも良い物に変えていこうと努めてきました。」
「この人々は自宅を再建した後も、共に生きようと考えるでしようか?それとも再び無関係な別の人間として生きようとするでしょうか?」

目下の情勢を見る限り、行政側による本格的な再建事業が軌道に乗るのはいつになるのか、その見通しには絶望的なものがあります。

しかし復興資金をどう調達するのか、働く場所をどうやって作るのか、そして市街地が再び太平洋の底に沈まないようにするためにはどのような対策を取れば良いのか、こうした大きな問題にばかりとらわれてしまうと、実際の石巻市の一本一本の通りで起きている静かな変化を見落としてしまうことになります。

再建01
「災害後3年近い月日が経過する中で、人々の努力の結果が目に見えるようになってきました。その事実が、地元住民を勇気づけています。」
開発建設事業の専門家であり、地元自治体のアドバイザーを務める東北大学大学院工学研究科の姥浦道生准教授がこう語りました。
「新たに整備された市街地に、魅力的な新しい家をなんとか建築できたとしても、これからはそこで暮らすことを、住民に懇切丁寧に説明することもまた大切なことなのです。」

http://www.theguardian.com/cities/2014/jan/27/ishinomaki-new-communities-tsunami-loss-japan
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今回の東京都知事選の立候補者の一人は、あの尖閣諸島に日の丸を立てて大騒ぎし、中国との関係をこじれさせる直接の原因を作りました。
その公約は「地震対策のため、公共事業をばんばんやれば、景気もよくなり、一石二鳥じゃないか!」というもののようです。
被災地の真ん中で東日本大震災を体験させられた私たちにいわせれば、理論というのも愚かしい、雑な上に根拠も何もあったものではなく、あきれるを通り越して腹が立ってきます。
そもそも震災直後、多くのボランティアや自衛隊員の方々が被災地で大変な思いをされていた当時、彼らはいったいどこにいたのでしょうか?

震災後さんざん言われた事は、人々の命を救ったのは人間の手による防災工事より、いち早く避難行動に移った人々が持っていた『防災意識』でした。
的確な判断、そして逃げるべき方向にいち早く逃げるという思い切りが生死を分けました。
ハードウェアよりもソフトウェアの方が遥かに大切だという事は、東日本大震災の後さんざん言われた事です。
そうした教訓など学ぼうともしないし、生かそうともしないで、金さえ『バンバン』かければ良いのだと声を張り上げる。
その主張は今回の東日本大震災では無く、100年近く前の関東大震災の話が根拠なのではないか、そう思えて仕方がありません。

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