ホーム » エッセイ » 『ゴースト・オブ・ツナミ : 3.11の被災地の生と死』R.L.パリー著《前篇》
日本に着任以来、2011年まで17,257回発生した地震のほとんどを経験した英国特派員が綴った実録
まさに上からの指示に従わなければならなかった子供たち、その大量死の直接の責任は誰にあったのか
エコノミスト 2017年8月17日
2011年3月11日午後2時46分、東京の北東約300kmにある仙台市沖合の太平洋の海底から約30kmを震源とするマグニチュード9.0の地震が発生しました。
日本を襲った史上最も強力な地震であり、科学者たちはその後、西暦869年に発生した貞観地震同じ沈み込み地帯での動きによるものであり、さらには1896年と1933年に発生した巨大地震とも関連するものだと判断しました。
そして『東日本大震災』の命名が成された巨大地震は、1千年以上前と同じ巨大津波を発生されることになりました。
2011年に発生した津波は最大で高さが40メートルに達しましたが、869年当時は津波の高さを記録する装置などはなく、被害を受けた村の人びとは津波が内陸のどの場所にまで到達したのか目印になる石を設置するなどし、何世紀にも渡り伝えようとしてきました。
繰り返し起きる巨大地震の日本の歴史は日本の人びとに、発生の際の対処方法について念入りに検討し、備えを怠らないようにするという教訓を与えました。
日本の学校で日常的に行われている地震や津波の際の避難訓練は、著しく効果的であることが証明されています。
2011年に発生した東日本大震災の犠牲者18,500人のうち、学童年齢の子どもたちの犠牲は351人に留まりました。
しかし一か所で著しく多くの子どもたちの命が失われてしまった学校がありました。
それが宮城県石巻市の大川小学校です。
『ゴースト・オブ・ツナミ』とはこの日、津波到来の警報がすでに出されていたにもかかわらず、なぜ自分たちではまだ状況判断が出来ない子供たちが丘陵地帯の手前に留め置かれ、このうち多数の子どもたちの命が失われてしまった出来事について、いったい誰が直接の責任を負わなければならないのか、そして子供たちの死という残酷な事実を突きつけられた家族、特にその両親は自分たちが子供たちを守ることができなかったという現実にどう対処したのかというドキュメンタリーです。
2011年まで英国タイムズ紙のアジア特派員を勤めたロイド・パリーは1995年に東京に着任して以来、2011年までに17,257回発生した地震のほとんどを経験しました。
そして2011年に発生した東日本大震災の発生から数週間、彼は津波によって原子炉がメルトダウンした福島第一原発、そしてその先に広がる津波の被災地に何度も出かけました。
彼は何度も東北地方に足を運び地元の公務員、仏教の僧侶、そして最も重要な人々になった大川小学校に子供を通わせていた家族に話を聞きました。
鋭い観察眼を持つロイド・パリー氏ですが、そんな彼をもってしても理解に苦しむようなエピソードを数多く耳にしました。
悲嘆にくれた1人の母親は娘の遺体を抱き抱え、死んだ子供の目を覆っていた泥を舐めながらきれいにしていました。
別の母親は未だに娘の遺体が泥の中に埋もれたまま発見されないため、自分自身で辺り一帯を掘り起こして捜索ができるように掘削機を操作するためのライセンスを取得しました。
ロイド・パリー氏は津波から生き残るという運命の分かれ道が、実情に即した適切な避難命令が与えられたかどうか、そしてどう対応したのかに大きく依存していたという事実を学びました。
被害は高齢者に集中しました。
ロイド・パリー氏は104歳で死亡した下川隆史さんに関する話を記録しました。
下川さんは周囲からも愛されていた人であり、2008年にやり投げの競技の100歳以上の部門で世界チャンピオンに輝いた際、この時偶然パリー氏も直接インタビューをしていました。
高齢者の次に犠牲が多かった人々は、津波警報の深刻さを理解していなかった人々、そして避難の前にいったん自宅に戻って大切なものを回収しようとした人々でした。
アメリカ出身の若い教師は、はぐれてしまった生徒を両親のもとに連れて行った後、今度は母国にいる両親に自分が無事だという事を電話で伝えるため自宅のアパートに戻ろうとして津波に巻き込まれました。
対照的に市町村が発した警報を聞き逃すまいと注意していた人々は、生き残るための確実なチャンスを手にしました。
最初の警報のサイレンが鳴らされたのは津波到達の約45分前、従って安全な場所に到着するのに十分な時間があったはずでした。
なのになぜ、何が、大川小学校で起きていたのでしょうか?
〈 後篇に続く 〉