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危機の時代のジャーナリズム《2》

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所要時間 約 10分

より高い教育を受けることにより貧困から抜け出し多様な生き方ができるようになり、多くの人々が政治に関心を持つことになる

愛国主義を振り回す風潮に抗い、平和のためのキャンペーンを続け、買収不能の自由主義報道の意地をつらぬいた編集者がいた

 

キャサリン・ヴィナー / ガーディアン 2017年12月2日

1819年8月16日マンチェスター市民のほとんどがセントピーターズ・フィールドに集まりました。
群衆のあまりの多さとその要求に脅威を感じた市長をはじめとする市の幹部たちは、武装した騎兵に集会に突入し力づくで解散させるよう命じ、急進派のヘンリー・ハントを含め演壇に上がった全員の逮捕を命じました。
騎兵たちは馬の上からサーベルを振るい、「手当たり次第に人々を斬りはらいました。」
こうしたその日集会に参加していた7人の男性と4人の女性の計11人が死亡し、数百人が負傷しました。
歴史家のA.J.P.テイラーは、ピータールーのこの事件は『イギリスの古い秩序の解体のきっかけを作った」と語りました。
この事件は『ピータールーの虐殺』あるいは『ピータールーの戦い』としてたちまち有名になり、その影響は計り知れないほど大きなものになりました。

 

その日集会の会場にいたジョン・エドワード・テイラーは週刊紙のマンチェスター・ガゼットにこの時の様子を報告する記事を寄稿しました。
この第一報を伝えたロンドンのタイムズ紙の記者が逮捕されたとき、テイラーは首都ロンドンの人々がマンチェスターの大量虐殺の正確な情報を得られない可能性があると懸念していました。
彼は現場にいたジャーナリストが事実を伝えなければロンドン市民は事実の代わりに公式発表を信じる以外の選択肢しかなく、結局流血の惨事を引き起こした責任がうやむやにされてしまうと危惧しました。

テイラーはロンドンに向け夜中馬車を走らせ、事件の報告記事を急いでタイムズに持ち込み、マンチェスターの抗議集会の様子を国家スキャンダルに変えたのです。

テイラーは冷静な文章で事実を明らかにしました。
彼は目撃した事実を報告することにより、力を持たない人々がどのような目に遭わされたのか、力強く描写しました。
しかしテイラーの業績はそれだけではありませんでした。
虐殺事件の後、彼は負傷者の運命について数ヶ月間調査を続けこれを報告し、400人以上の事件の負傷者の事件後の様子について文書化したのです。

 

ピータールーの全容を解明するためのテイラーの絶え間ない努力は、彼自身の改革派としての政治的見解を強固なものにし、議会における公平な議席の構成を実現させるべく世論を喚起する活動を行うことを決心させるに至ったのです。

彼は自身の新聞であるマンチェスターガーディアンを創刊しました。
創刊のための資金は他の中産階級の財政支援に頼りました。10人がそれぞれ100ポンド、11人目が50ポンド寄付しました。
創刊号は1821年5月5日に発行され、啓蒙主義、自由、改革と正義に捧げられました。
ガーディァンは一人の人間の確固たる信念と楽観主義によって創刊されたのです。
彼はこう語っていました。
「ピータールーの虐殺、そして警察による様々な形をとった圧力…しかし理性は偉大であり最終的に勝利することになるだろう。」

 

マンチェスター・ガーディアンはきわめて楽観的な気分とさらには普通の人に対する信頼を基に設立されました。
テイラーが創刊前に発表したマニフェストには非常な勢いで「教育の普及」が進んでいる事実が語られ、それにより「政治的な課題が人々の大きな関心事となり、議論の対象となる現象が人々の間で非常な勢いをもって広がり続けている状況が」熱っぽく語られています。
そして「この大きくなり続けている政治への関心を、現実を変えていく力に最大限転換していくことが最も重要である」と述べています。

これはきわめて力強いメッセージであり、この理想こそが現代までガーディアンの基盤を形作ってきたものなのです。
より多くの人々がより高い教育を受けることにより貧困から抜け出し多様な生き方ができるようになり、そしてより多くの人々が政治に関心を持つことになる、そうしたうねりが生みだされるれることに大きな価値を見出しているのです。

このメッセージはマンチェスター・ガーディアンが政治に関わろうと考え始めた人々と密接に関わり、人々が行動を起こすために必要な情報を提供することを可能にしたいという、国民に対する責任感をも明確にした文書です。
それはまったく冷笑的でもなく、権柄づくでもない、完全に一般市民の側に立ったメッセージでした。

 

しかし1844年のテイラーの死後から数十年が経つと、マンチェスター・ガーディアンは創刊当時に掲げた政治的な理想から逸脱し始めました。
マンチェスターの綿業界と密接な関係を築いて多額の広告収入を得たことは経営上は大きな恩恵がありましたが、紙面の上では問題を生じることになりました。
マンチェスター・ガーディアンはアメリカ国内の南北戦争で奴隷制度の存続を求める南軍の側に立つことにもなりました。
マンチェスターの綿業界の労働者たちはアメリカの奴隷制の下で採取されたコットンに触れることを拒否し、路上で空腹をかかえていましたが、マンチェスター・ガーディアンは直ちに職場に復帰するよう要求しました。
マンチェスターの労働者たちの抗議行動はいかなる国のいかなる階層からも支持されていませんでしたが、アメリカ大東利用のエイブラハム・リンカーンは1863年、「マンチェスターの労働者たち」にキリスト教徒としての崇高な勇気に感謝するメッセージを贈りました。

ガーディアンにとって自分しか見えなくなってしまったこの期間は、C.P.スコット編集長の任命によって劇的に終わりを告げました。
C.P.スコットはそ広告主におもねる論調を一新し、創刊以来のガーディアンが最も大切にしてきた市民の立場から政治に直接関与する姿勢を再び確立することに貢献しました。

 

スコットは1872年に25歳で編集責任者になりました。
彼は社会正義と平和主義について最大の関心を持つ、急進的な自由主義者であり政党の活動家でもありました。
スコットは編集者として過ごした57年間に社会正義と平和主義という2つの大きなイデオロギー的課題に取り組みました。
このスコットの姿勢が、今日まで続くガーディアンの編集方針と経営方針を確立することに貢献したのです。

 

最初の問題はアイルランド自治政府問題でした。
1880年の自由党の分裂原因となった当時もっとも熱い議論が戦わされたこの問題について、スコットはアイルランドの自治を実現させる側に立ってキャンペーンを行いました。
歴史家のデイヴッィド・アイアーストの言葉を借りれば、ガーディアンは明らかに「最左翼の論客」となりました。 そそして19世紀の終わり、スコットはガーディアンを議論が沸騰していた反植民地主義的立場を打ち出しました。

1899年から1902年まで続いた第2次ボーア戦争では、英国は横奪的な行動に出ましたが、英国内では戦争に反対する者は『裏切り者』扱いされました。
それでもガーディアンはこうした風潮に抗い、平和のためのキャンペーンを行いました。
ガーディアンの花形記者の一人であったエミリー・ホブハウスは、イギリスが南アフリカの地に作ったボーア人の強制収容所の写真を公開しました。

しかしこうした論調は賛否両論を生み、ガーディアンは広告主とその売上の7分の1を失ってしまいました。
ガーディアンが崩壊寸前だと確信したライバル紙は、マンチェスターのクロス・ストリートのオフィスの前にブラス・バンドを送り込み、ヘンデルのオラトリオ『サウル』の葬送行進曲を繰り返し演奏させました。

 

スコットの姿勢は勇敢と言うべきものでしたが、ガーディアンは廃刊寸前に追い込まれました。
それでもスコットは当時の政治情勢に立ち向かい、この新聞を「教育レベルの高い男女が持つ急進的改革思考の有力な表現手段」に変えたと歴史家のデイヴッィド・アイアーストは書いています。
「ガーディアンの紙面は明らかに買収不可能だった。」

 

スコットはガーディアンの紙面をさらに急進的なものにし、「新自由主義」として知られていた自由競争主義とは距離を置き、社会的正義と福祉にの実現を目指すようになりました。
こうしてガーディアンはその後も何度か訪れた危機を一つ一つ乗り越えながら、今日まで創刊以来維持してきた進歩的な路線を歩み続けることになったのです。

 

《3》に続く

https://www.theguardian.com/news/2017/nov/16/a-mission-for-journalism-in-a-time-of-crisis

 

 

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