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そして7人全員が生きのびた……

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所要時間 約 7分

やっと女川に住む友人のもとを尋ねることができました。

仏切手帳

仏切手帳

4月23日土曜日雨、朝7時前に自宅を出発、仙台市東部道路(有料道路)仙台東インターから一路石巻を目指します。5キロほど走ってすぐに渋滞に巻き込まれました。いっこうに進む気配がなく、仕方なく一般道に出て北へ。松島海岸インター近くに来て見上げた有料道路は車がスイスイ。あわてて同インターから再び有料道路にのったところ、今度は1キロも進まないうちにまた渋滞。そんなことを繰り返しながら、約2時間後、普段の3倍ほどの時間をかけて石巻市内北部に入りました。まず驚いたのは石巻市総合運動場に並ぶおびただしい数の自衛隊のトラック、その隣には無数の野営テント。しかし市内の道路はあちこち亀裂が入り、地割れし、陥没しており、脇見なんかしていられません。行き交う車すべてが慎重に進路を選び、その為にあちこち渋滞が発生しています。市街地に向かう方は大渋滞、通じようのルーとは使えそうにありません。幸い多少の土地勘があった為、女川街道の裏道を通り、山越えをして万石浦のところから街道に出ました。
出た途端、津波で舗装がかはがれ、大穴だらけの砂利道を走らされるはめに。幸い100メートルほどで舗装された道に戻りましたが、やはり陥没や亀裂があってスピードを出す訳にはいきません。
そして9時30分、女川町内へ。しかし、牡鹿半島と町内への岐路に自衛隊の人たちが交通整理をしていて、町内には入れなくなっています。友人に電話をしてそこまで迎えにきてもらいました。後で聞くと、町内のがれきの本格的な撤去に着手する為の通行止めであったようです。
友人は女川町内で経営していた事務所と少し離れた場所の自宅の2棟ともに津波に流され、町内の小高い場所で隠居されているご両親のお宅に避難していました。
尋ねる前、その場所をGoogle Mapの航空写真で確認したとき、そのお宅の回りががれきだらけになっている様子が写っていましたが、その拡大映像が目の前に広がっています。まるで砲弾の直撃をくらったように上部構造がメチャメチャになったワゴン車が道ばたに放置してあります。さらに進むと壁が破壊されたたくさんの家と、奇妙な角度でその家に寄りかかったり、壁に突き刺さる破壊された乗用車。決まり事のようにその組み合わせが目の前に次々と現れ、津波の持つ想像もできないほど大きな破壊力に唖然とさせられます。
町内の4分の3が壊滅した女川町、そこから先、海に向かってはがれき以外のものを見る事はできませんでした。
半ば感覚がおかしくなったまま、友人のご両親の家の前に車を止め、家の中に招じ入れられました。
幸いご両親、男の子3人を含め家族7人が全員無事でした。しかし、『あの時』のお話を聞くと、何ごとも無くここに全員そろっているのではない事を教えられました。

当日、本人は今避難している場所からずっと海に近い、埠頭から350メートルの場所にある事務所で仕事をし、中学生の男の子1人、小学生の男の子2人はそれぞれ学校に、奥さんは「浜の方へ」買い物に行っていました。ご両親は今いるご自宅に。
午後2時48分、友人は恐ろしい揺れが収まると、事務所を飛び出しました。とりあえずまず、小学生2人を引き取りに小学校に向かいます。校門を入ると、子供たちが校庭の真ん中にかたまって避難しているのが見えました。
友人のパニックは、その中に自分の子が2人ともいなかった瞬間から始まったのです。
あわてて小学校を飛び出し、通学路をたどります。通学路は町中を迂回する山の斜面にありますが、2人とも見つかりません。「もしや?!」と思い、ご両親のお宅を確かめると三男の息子さんが避難していました。町の中学校は高台にあるため、長男が学校から出ていない事を祈りつつ、次男の姿を求め再び通学路の斜面に向かいました。そして、3時15分、町に津波がやって来たのです。
たちまちに町内には真っ黒な水があふれ、凄まじい勢いで町をのみ込んで行きます。

その時、買い物中だった奥さんは埠頭から250メートルほど、町の指定避難所だった少し小高い場所にある町立女川病院に避難しました。病院の駐車場には避難して来た車でいっぱいなり、ほとんどの人が車に乗ったまま不安そうにしています。病院の入り口には車椅子に乗った数人の高齢者が、これも不安そうに外を見ていました。
奥さんはとりあえず病院1階の待合室に入り、子供たちの身を案じていました。
その時、真っ黒な水が病院の玄関から突入して来たのです。
たちまちに病院の一階全部が水につかり、水かさはどんどん増して来ます。奥さんはなす術も無いまま、どんどん天井の方へ押し上げられて行きました。
そして、水かさは天井までの高さ残すところあと30センチで止まったそうです。
徐々に水が引いて行き、再び床に足が着いた時は立っているのがやっとでした。
視線をあげると、病院の入り口付近にいたはずの車椅子の高齢者も、駐車場の車も、何もかもが流されてなくなっていました。

津波はご両親の自宅までやって来ました。まさにそこが津波の末端だったのです。
一番近い埠頭から1,100メートル前後、なだらかな坂を上って来たところにご両親の家があります。
津波は周囲の家を破壊しながらその敷地まで入り込み、床下を水浸しにし、そこで止まりました。
数メートル少し下がった隣家、南側と東側のお宅は全壊しました。
生きた心地もしなかったでしょうが、それ以上に衝撃であったのは、津波が来るすぐ前に飛び出して行った息子さんの生死については、『絶望的』と思わざるを得なかった事でした。
たった一人残った孫を抱きしめ、廃墟となった窓の外を呆然と眺め続けたと言います。

そして、再会。
まず友人が車を運転して帰って来ました。
ずぶぬれの奥さんは徒歩で。
生死不明の次男は数人で帰宅途中のところを、車で通りかかった近所の人に全員保護されており、その人に送られて。
中学生の長男は津波の被害を免れた学校から、歩いて帰って来ました。
長い一日が終わろうとする夕刻、それぞれの生死をかけた戦いから解放され、再び家族7人がそろいました。
外では雪が降り出していました。

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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