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【 津波の下に消えてしまったこどもたち : 3.11の想像を絶する悲劇の真相 】《1》

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所要時間 約 9分

欧米メディアに大きく取り上げられているドキュメンタリー、その著者自らが綴る3.11の最大の悲劇

眼前に広がる無数の死や無惨な様子、そのとき受けた衝撃、心と体は……

 

リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日

 

2011年、東北地方の太平洋岸を津波が襲いました。

この津波では18,000人以上が犠牲になりました。

災害発生からすでに6年が経過しましたが、たった数秒間で運命を暗転させてしまった取り返しのつかない当時の決断により、未だに苦しみ続けている地域があります。

 

リチャード・ロイド・パリー/ロング・リード/ ガーディアン 24 August 2017

 

2011年3月11日金曜日に日本の東北太平洋岸を襲った地震は、世界の地震学の歴史上4番目に強力なものでした。

この地震は地軸を6インチ(15センチメートル)傾けるほど強力なものでした。

そして日本をアメリカに4メートル近づけました。

この地震によって発生した津波によって18,000人以上が死亡しました。

津波の高さは最大で40メートルに達しました。

 

50万の人びとが住む家を失いました。

そして福島第一発電所の3基の原子炉が崩壊して周囲の国土に放射能を撒き散らし、チェルノブイリ以来の世界最悪の原子力事故が引き起こされました。

地震と津波は2億1,100万ドル以上(約2兆3,000億円)の被害をもたらし、これまでで最も費用が高額な自然災害となっています。

苦痛と不安は様々な側面で計り知れない程、そして急激に膨れ上がりました。

それは直接的な被害を受けなかった人々ですら同様であったのです。

突然自分たちが育てた農産物を売ることができなくなった農民たちは、途方に暮れるしかありませんでした。

福島第一原発の事故に直接責任が無い電力会社の労働者は、自分たちが非難と差別の対象となってしまっていることに気づかされました。

眼には見えない放射能汚染への恐怖が人々の中で一般化され、空気を介し、そして多分水をも介して拡大し、母親たちの母乳すら汚染が疑われる事態となったのです。

 

戦場や被災地で働く人々はしばらくすると、現実を自分の頭の中から追い出すコツをつかみます。

これは職業上必要なことです。

医師、救助隊員あるいは報道関係者が、眼前に広がる死や無惨なありさますべてに衝撃を受けていたのでは心も体ももつはずがなく、仕事を続けることは不可能になってしまいます。

私自身、海外特派員や戦場特派員として働く中で、いちいちの悲劇を個人として受け止めることなく思いやりを持って対応するという技術を身に着けました。

私は実際に何が起きたのかその事実を把握しており、それがどれだけぞっとするでき事なのかも理解していました。

しかし心の奥底では、ぞっとしてはいませんでした。

「一瞬にして、私たちは想像でしかなかったはずのものが現実に目の前に展開されていることを理解しました。」

ジャーナリストのフィリップ・グレビッチ(Philip Gourevitch)がこのように書き残しました。

「こうした立場に立てるという事が私を最も魅了していることなのです。何が本当であるかを私自身が考えて答えを出す必要があります。」

 

一口に災害と言ってもその構成要因であるひとつひとつのできごとはまったく異なり、それぞれが持つ意味合いもまた違っており、私自身揺るぎない真実を書き綴っているという確信などはみじんも感じていませんでした。

取材を続けていた数週間、私が感じていたのは疑問、同情、そして悲しみでした。

しかしほとんどの時間、私は通常の感覚を失ったまま孤立したように感じ、何か重要なポイントを見失っているような厄介な感覚に苛まれていました。

そして他とは比較にならない程の悲劇に見舞われた小さなコミュニティに関する情報を得たのはずいぶん後になってからのことで、津波による被害が発生した年の夏のことでした。

その地の名前は大川、丘の下の田んぼに囲まれた、日本各地にある普段は目立たないような場所にありました。

被災地での取材は数年間に及びましたが、その間私はこの地を何度も訪れることになったのです。

そして徐々に大川小学校のイメージが私の中に徐々に出来上がっていったのです。

 

大川小学校がある場所は首都の東京から300キロ以上北にあり、日本有数の大河である北上川が太平洋に注ぎ込む場所から3キロほど内陸の地点の釜屋という集落です。

その場所がある東北地方は寒く酷烈な気候と、かつては野蛮人や鬼たちが独自の王国を築いていた場所として有名でした。

今日でさえ都会の住人から見れば、その場所は辺鄙で人口も少なく、何となく憂鬱な典型的農村というイメージの域を出ません

 

大川小学生に通っていた生徒の一人、只野哲也くんは髪の毛を五分刈りにした、優しい快活な雰囲気を持った11歳の男の子でした。

毎朝、彼は9歳になった妹のみなさんと一緒に川沿いの道を20分歩いて学校に通っていました。

東日本大震災当日は、母親の40歳の誕生日でした。

その日の夜は自宅でささやかなお祝いをする予定でしたが、それ以外はふだんと変わらない金曜日の午後になるはずでした。

昼休みには、子供たちは校舎に囲まれた校庭で一輪車に乗って遊んだり、四葉のクローバーを探したり思い思いに遊んでいました。

しかし川の方からは刺すような冷たい風が吹いてきており、哲也くんとその友達は両手をポケットに入れ、風に背中を向けて一列に並んで寒さをしのいでいました。

 

その日大川小学校の授業は午後2時半に終了しました。

午後2時45分、スクールバスはエンジンをかけたまま出発を待っていました。

数人の低学年の子供たちはすでにバスの中にいましたが、ほとんどの子供たちはまだ教室にいて、今週の最後の授業を終えようとしているところでした。

その 1分後、6年生のクラスの子どもたちは、この日誕生日をむかえたまんのという同級生の女の子ためにハッピーバースデー歌っていました。

地震が襲ったのは歌が真中に差し掛かった時でした。

 

当時6年生だった男の子の佐藤壮真くんは、はじめ教室が非常にゆっくりと左右に揺れていたと語りました。

「小さい揺れではありませんでした。巨大でした。先生たちは『机につかまりなさい』と言っていました。」

図書室に具合が悪くなって保健室で休んでいた息子を迎えにきた男性、鈴木真一さんがいました。

鈴木さんは魚を飼育している水槽内の水が大きく波打つのを目撃しました。

5年生の哲也くんのクラスでは帰宅の準備が始まっていました

「地震が襲ってきたとき、ぼくたちは全員机の下に身を隠しました。」

「揺れが強くなるにつれて、みんな口々に『うわあ! これは大きいぞ! みんな大丈夫か?」

強い揺れが止んだ時、すぐに先生が「私の後についてみんな外に出なさい!」

と言ったので、私たちは全員ヘルメットをかぶって外に飛び出しました。

 

-《2》に続く –

https://www.theguardian.com/world/2017/aug/24/the-school-beneath-the-wave-the-unimaginable-tragedy-of-japans-tsunami

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この稿は今年8月30日に刊行され、エコノミストやガーディアンの書評で大きく取り上げられている『ツナミ・オブ・ザ・ゴースト』の著者であるリチャード・ロイド・パリー氏の自身の手になるものです。

 

 

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