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【 日本の核廃棄物問題 – 埋蔵処分の可能性と危険性 】〈前篇〉AP

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所要時間 約 13分

数年間燃料として使っただけで、最低10万年間安全に保管しなければならない高レベル放射性核廃棄物、電力各社は合計17,000トン以上抱え込んでいる
活発な火山活動、多発する地震、移動する地下水脈、日本の国土で10万年の間、高レベル放射性核廃棄物を安全に保管し続けることは可能なのか?

AP通信 / ワシントン・ポスト 7月14日

核廃棄物01
日本の北端にあるこの地では、トナカイ飼育場と放牧されているホルスタイン牛がなだらかに波打つ緑の牧草地帯の中に点在しています。
しかしその地下に今、全く異なる世界が現れようとしています。

核廃棄物処分場が作られることについて不安を抱く約2,500人の幌延町の住民に対し、日本政府が説得を行っている段階で、建設作業員と科学者たちは複雑な地下構造を持つ核廃棄物の処分研究施設を作りつつあります。

「私は心配しています。」
トナカイの飼育をしている、54歳の荒瀬敦さんがこう語りました。
「政府がすでにこの場所を候補地として選定してしまっているのなら、私たちがいくら拒絶しても、結局はこの場所に核廃棄物の最終処分場が建設されてしまうのではないでしょうか?」

日本の各電力会社は、数年間原子力発電所の燃料として使われた後に、数百年から数万年間極めて危険であり続ける物質へと変わった使用済み核燃料を、合わせて17,000トン以上抱え込んでいます。

この『核のゴミ』、原子力発電所が稼働することによって生み出される高レベル放射性核廃棄物の問題は、原子力発電を行っている世界中の国々が避けて通れない問題であり、未だに合理的、そして絶対安全な方法というものは存在しません。
高レベル放射性核廃棄物の問題は、日本では2011年に起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故により、初めて多くの一般市民がこの問題を認識するようになり、今後原子力発電の利用を続けるべきかどうかの、重要な論点の一つとなりました。

地下処分場幌延01
その問題に対する答えが、日本原子力研究開発機構が運営する幌延深地層研究センターの中にあるかもしれません。
同センターは、活発な火山活動、多発する地震、そして地下水脈が度々移動する日本の国土において、少なくとも100,000年間高レベル放射性核廃棄物を、安全に保管し続けることが出来るのかどうか、できるとすればどうすればいいのか、そのために必要な地質学データを収集しています。

ヘルメットを着用した数人のジャーナリストがフェンス型のエレベータに詰め込まれ、この研究施設に入るため地下350メートルに降りていきました。

ジャーナリストたちは、地下に8の字型に760メートルの長さに掘られたトンネルの中で、約300万年前の地層がむき出しになったトンネルの壁を目の当たりにしました。

水滴がしたたり落ち、トンネルの床には水たまりが出来ていました。
壁にはビスケット程の大きさの穴がいくつも開けられ、その中に計測器やケーブルが挿入され、地下水の成文、そして水脈の変化を24時間測定し続けています。

幌延町の資料によれば、研究施設の立地と引き換えに(日本原子力研究開発機構と幌延町の合意文書に基づけば、この段階では放射性物質の持ち込みは一切ありません)、町は日本政府から10億円の補助金を受け取り、さらに2000年以降公共事業による雇用その他の経済的恩恵に浴しています。

表向き幌延町にあるのは、飽くまで研究のみを行う施設です。
しかし結局は断念せざるを得なかったアメリカのユッカマウンテン核廃棄物処理上建設計画同様、高レベル放射性核廃棄物の処分場建設の受け入れ先を見つけることは、いくら金を積んでも非常に困難であるという現実があります。
2007年、1人の市長が受け入れに前向きな態度を表明した結果、次の選挙に出馬することを断念せざるを得なくなりました。

地下処分場幌延02
幌延深地層研究センターの清水和彦所長は、幌延が潜在的な危険がきわめて少ない点について強調し、蓄積されたデータが高レベル放射性核廃棄物の埋設処分場に適している可能性がある事に言及しました。
そして別の候補地を選定することになれば、さらに20年の月日を要することになると付け加えました。
「着手するだけでも、膨大な時間と努力を必要とするプロジェクトなのです。」
「簡単に考える訳には行きません。」

こうした施設を受け入れることに関し、地方の住民たちの中には自分たちが悪魔との取引をしているかのような感覚に陥る人々もいます。

「この研究施設が、最終処分場に変わることはないという保証はありません。」
60歳の酪農家である角さとしさんがこう語りました
フランスでは研究施設をそのまま最終処分場にする動きがあり、その事が角さんを神経質にしています。 「私は合意についてそもそも疑問を持っていましたし、今でもその気持ちに変わりありません。」

〈後篇に続く〉

http://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/underground-lab-tackles-japan-nuclear-waste-issue/2014/07/14/8e46c726-0b2e-11e4-929c-4cd4865c3725_story.html
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原子力発電所の再稼働問題について、国内報道を見ていてその詰めの甘さを痛感するのは、再稼働しようとしている各原子力発電所には現在どれだけの使用済み核燃料が溜まってしまっているのか、そして再稼働すればそれがどれだけ増えてしまうのか、なぜそれを伝えないのか?という点についててです。

福島第一原発の事故が発生したために、原子力発電を行っている諸外国と比較にならない程、日本においては廃棄物の問題が深刻化してしまっているのを最初に指摘したのはフェアウィンズのアーニー・ガンダーセン氏とニューヨークタイムズでした。

しかし今の再稼働問題について、あえてこの問題の存在が無視されているように思います。

「核廃棄物を敷地内に、一時貯蔵するしか無くなって来た原子力発電所。しかし、原発は核廃棄物を『安全に』保管できるよう設計されてはいない」のです!( http://kobajun.biz/?p=1697 )

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【 あのとき、戦場にいた人々の記憶 】〈7〉
二次世界大戦が終わってもう何十年も経つのに、日本には話し合うことを拒否し、今だに戦争を続けようとしている人間たちがいる

ニューヨーカー 6月5日(記事本文は再掲)
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

WW2-13
2010年、初めての個展を開催するためにロシアを訪れていたカメラマンのサーシャ・マスロフは、後に連作となる『戦争経験者』の最初の一枚になる写真を撮影しました。
ソビエト赤軍の航空整備士ピョートル・ドミトリヴィッチ・コシュキンの肖像写真でした。
こうして彼の4年越しの連作がスタートしました。
彼はこの間、写真撮影とインタビューを繰り返しました。
題材になったのは兵士だけではなく、医師、技術者、パルチザン、地下抵抗運動の参加者、そして捕虜。
そしてホロコーストの生存者と一般市民は、戦争のはざまで最も苦しんだ人々でした。

マスロフは私にこう語りました。
「人々はそれぞれの場において、戦争という衝撃的な出来事を、自分自身の膚で感じたのです。」

マスロフはウクライナ出身の30歳のカメラマンで、5年前ニューヨークに移り住みました。
『戦争経験者』という大作に取り組むことになった理由について彼は、生と死のぎりぎりの境を体験した世代の記録をしっかりと残したいという思いがあったと語りました。
そして彼は国籍の違いによって、『戦争』の体験が著しく異なることも記録に留めようとしています。
「この連作の中で、最も興味深かったのは地理的要因による運命の違いでした。」
どの国の出身であるかによって、人々を視覚的にはっきりと分けてしまう事が可能です。
私が撮影したすべての人が第二次世界大戦という、かつてない規模の巨大な事件の当事者でした。宇宙で起きたビッグバンのように、彼らは世界中至る所でこの巨大な事件の渦中に巻き込まれたのです。居間、寝室、そして台所でさえ、戦争と無関係ではありませんでした。

「あなたは、視覚的に人々がどこの出身であるかについて比較することができて、彼らの
マスロフにはここまで18カ国を旅し、写真集を完成・出版する前にさらにインド、オーストラリア、南アフリカ、そしてギリシャを周る予定です。

『戦争経験者』の写真を撮影していて、何が一番印象に残ったかマスロフに質問してみました。
「ある人々は大きな寛容を示しました。そして別の人々の中には尽きることのない憎しみが消えることなく残っています。その対比の極端なことには驚かざるを得ません。」

▽ アイマンツ・ゼルタンズ(バウスカ、ラトビア)
「私たちは数週間のゲリラ戦を行いました。そして私は、1944年9月14日に負傷し、そこで私の戦争は終わったのです。
私は、28台のソビエト軍のT-34戦車に対し、徴兵された200人のラトビア兵が立ち向かった戦いで負傷しました。
我々は川を渡ろうとしていましたが、ソ連軍は全方向から我々に向かって来ました。
上空には敵の戦闘機がいました。
多くのラトビア兵が、川を泳いで渡ろうとして殺されました。
私たちには6丁の迫撃砲がありましたが、操作できる兵はもういませんでした。
私は屋根の上にそのうちの一丁を運び上げ、戦車に狙いを定めました。
しかし戦車は私が居た建物に砲弾を撃ち込みました。次の瞬間、わたしの下で建物全体が崩れ落ちていったのです。」(写真上)

▽ ヘルベルト・キリアン(ウィーン、オーストリア)
「ソビエト軍の捕虜になった私は、ひたすら東をめざして、数週間というものずっとソビエト連邦を横切る列車の中で揺られていました。私は殺人者、あるいは泥棒の一団の中にいました。犯罪者などと言う抽象的な表現は当てはまりません。
私が連れて行かれたのはシベリアの東端、コリマ川の流域のマガダンという場所でした。
私たちは金鉱掘りをさせられたのです。しかし私は食べ物の不足から体が弱ってしまい、役に立ちませんでした。彼らは私が仕事ができない分、さらに食事を減らしたのです。おかげで私の体重は36キログラムにまで落ちてしまいました。」(写真下)
WW2-14
▽ ハロルド・ディンゼス(ニュージャージー州パッセーク、米国)
「捕虜を得て尋問するため、私たちは原住民を使って日本兵の捜索を命じました。しかし彼らは手ぶらで戻り、首を振って見せるのが常でした。私たちが見たいのはお前たちが首を振る様子ではなく、日本兵なのだと言いました。初めて日本兵の捕虜を得た時、私たちは何とか情報収集に役立てようとしました。降伏して来る日本兵はほんとうにわずかしかいなかったからです。数百マイル行ってやっと一人といった割合でした。」
「日本兵は戦闘行動を止めることを、頑として聞きいれようとしませんでした。そして第二次世界大戦が終わってすでに何十年も経つのに、日本には話し合うことを拒否し、今だに戦争を続けようとしている人間たちがいるのです。」(写真下)
WW2-15
http://www.newyorker.com/online/blogs/photobooth/2014/06/faces-of-the-second-world-war.html#slide_ss_0=1

 

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