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【 地震、津波、そしてメルトダウン – 日本史上、最悪の悪夢は続いている 】《第5回》

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所要時間 約 14分

降りそそぐ放射能…行方不明になった大切な家族を、捜索することすら許されなかった
せめて先祖伝来の安息の場に葬ってあげたい、その願いもかなえられない現実

ヘンリー・トリックス / インテリジェント・ライフ2013年7・8月号 / エコノミスト

NBC20
加納屋さんの弁護士は、菅野晴隆氏という思慮深い男性です。
福島市内の事務所で革製の椅子に座った菅野氏は、今回の事案が前例のないものであることを認めました。

今回の訴訟はいわば死者の尊厳に価格をつけようというものですが、菅野氏は残された遺族に対する慰謝料とも性格を異にすると語りました。
原告たちが求めているのは、愛する人々が死んでしまった際にその遺体が放置されてしまったことについて、残された人間がどれ程の苦悩を背負い込んだか、東京電力に対しその事に対し心からの謝罪と哀悼の意を表すよう求めているのです。
現在の日本の法律の下では、その要求を形にするには金銭上の賠償を求めるしか途は無いのです。

2月に東京電力も隣席の上行なわれた審理では、遺族側の証言において苦痛の感情がほとばしり出る場面が何度もありました。
遺族たちは罪の意識を背負っていたのです。

当時人々は迅速な避難を強いられ、別れ別れになった家族も別の避難場所に一時的に身を寄せ、無事でいるものと思っていました。
しばらくしてその家族が行方不明になっていることが解り愕然としましたが、その時はもう時間的に捜索しても手遅れになっていました。
それから一カ月以上捜索が続けられる中、果たして遺体が発見されるかどうか、残された家族は煩悶し続けなければなりませんでした。
その間、遺体の腐敗が進んでしまうという恐怖にも苛まれることにもなりました。

遺体捜索
菅野弁護士は遺体を火葬にする以前、通例の仏教の儀式では遺体を丁寧に清拭し穏やかな状態に形を整え、専用の装束を身につけさせるのだと語りました。
法廷の多くの証言により、遺族が亡くなってしまった大切な家族の遺体を整え、装束を身につけさせることが出来なかった事を、どれ程嘆き悲しんでいるかが明らかになりました。

人生の最後に対する侮辱であると、遺族たちは主張しました。
位牌を先祖代々の墓の中に葬ってやることが出来ない。
請戸などの場所では、放射線量が高いために墓地は立ち入り禁止になっており、埋葬などの行為も許されないのです。
そのために加納屋さんも、ひさ子さんの遺灰を仮設住宅の中の仮の仏壇に置いておく他ないのです。
墓地にきちんと埋葬されない限り、ひさ子さんの魂は現世と来世の間でさまよい続けなければならない、加納屋さんはそう信じています。

立ち入り禁止になっている墓地は、請戸の町はずれにあります。
大理石などで作られた墓石がまるでドミノ倒しのように、津波に倒されたままになっています。
私が初めてこの墓地を訪れたのは2012年、海外ジャーナリストと気づかれないように白い放射線防護服を頭からすっぽりとかぶっていました。

NBC23
黄色い花を咲かせる雑草とアキノキリンソウの花があたり一面を覆い、黄色一色の景色が広がっていました。
私の案内役を務めてくれた男性は、父親と一緒に津波が襲う以前に建てた墓に案内してくれました。
父親は以前に亡くなっていました。

彼は、私に空の小箱を見せてくれました。
真っ黒な津波は、父親の灰すら永遠の安息場所から奪い去っていき、墓地の周囲にある湿地の中に沈めてしまいました。
私たちは周囲を探しまわった挙句、数百メートル離れた水田の中で墓所の蓋を見つけました。
半分泥に埋まったその上を、アリたちが行ったり来たりしていました。

「私が恐れているのは、この墓地全体が風化によってすっかり荒廃してしまう事です。そうなってしまえば、ひとつひとつの墓の区別すらできなくなってしまいます。」
この青年が語りました。
彼が強く願う事のひとつは、墓地全体を人が訪れることが出来る場所に移動させることです。
そうすれば請戸の人々は再び祖先を祀り、亡くなった人々の霊を慰めることが出来るようになります。
彼はこうつぶやきました。
「そしてもちろん、人の心を持たないあいつらは、そんな話には耳を貸そうともしない…」

NBC 1
部外者の立場としては、日本では日常生活の中に死者がどの程度かかわり合うものなのか興味があります。
死者が子孫が用意したごちそうを楽しむために現世に戻ってくるとされるお盆(毎年ほとんどの地方で8月に行われる)になると、人々は墓地に集まり祖先のために食べ物や飲み物を墓前に供えます。

この青年が請戸の墓地で自分たち一族の墓を建設していた夏、お盆の時期に見た光景を覚えていました。
人びとは今は墓の中に眠る大切な人たちの喉の渇きをいやすため、お茶や水を持って墓地に集まってきました。
うだるような暑さの中、人々が先祖たちの霊と飽くことなく会話を続けている様子に、彼は改めて驚かされました。

私はそのあと自分の足で請戸周辺を見て回り、津波によって命を落とした164人の犠牲者のうち数人についての記憶をたどることが出来ました。

彼ら犠牲者の死に臨んでの様子は、しばしば福島の人々の心にある死に対する覚悟のようなものを私たちに告げているかのようです。
そして一方では、一見すれば調和と平穏さに満ちた小さなコミュニティにありがちな嫉妬や悪意という別の現実についても明らかにしました。

NBC16
狷介な性格の、ぜんそくを持病に持つ高齢の男性に嫁いだ女性がいました。
彼女は結婚生活の中で夫と姑から残酷な扱いを受け、時には虐待を受けることもありました。
義理の母親が亡くなった時、彼女の友人たちは離婚してその家を去るよう強く勧めました。
しかし彼女は津波がその家を襲った時、まだ夫の世話を続けていました。
地震の後も自宅からの避難を拒み続けた夫の傍らで、彼女は津波の犠牲者として命を落としました。

請戸地区の聖職者もまた、そうした犠牲者のひとりでした。
彼の場合は妻も、娘も、義理の息子もまた義医者となってしまったのです。

彼の家族は、神社の維持費と年間行事に必要な費用を巡り、地区の数軒の家と確執がありました。
生き残った別の娘が勇敢にも津波の犠牲になった父の後を継いで、神社の神官となることを申し出ましたが、地区の保守的な人々がそれを拒否しました。
かつては壮麗さを誇った神社は津波によって跡形もなくなり、現在は同じ場所に仮設の神殿が建てられていますが、管理しているのはこの地区から50キロも離れた場所にある別の神社です。

そしておそらく、最も人々の心に訴えるのは14才の少女、横山若菜さんの記憶です。
時折庭先をカニが急ぎ足で横切っていくほど、彼女の自宅は海に近い場所にありました。

130312
彼女のお気に入りの遊具は、漁師たちが捨てた乾燥したヒトデの死がいでした。
彼女はそれをまるでフリスビーのようにして、海岸で飛ばして遊んでいました。
彼女の食卓にはいつも新鮮な魚介類が並んでいました。
庭にある井戸の傍らで、若菜さんの祖父であり、人望の厚い船大工であった祖父がいつも魚をさばいていました。
それらの魚は地区の漁師たちがいつも無償で持ち込んできました。
記憶にある限り、若菜さんの家族が魚を買ったことは一度もありませんでした。

祖父が魚をさばく手並みが最も鮮やかに見えるのは、鮭をさばく時でした。
彼は左手にナイフを持ち、慣れた手つきで鮭の身を開き、中から卵を取り出し、慎重にそれを器の中に絞りだしました。
採りだされた卵は、筋子として朝の食卓に並んだのです。
「おじいちゃんの手並みは神業でした。」
若菜さんがこう語りました。
「地球上の他の誰よりもすばらしい手並みで、おじいちゃんはきれいにさばいて見せてくれました。」 その祖父も妻と一緒に、津波で死亡しました。
ひさ子さんの時と同じように、祖父母2人の遺体は回収される事無く、数週間の間放置されたままになったのです。

請戸の周辺でも土地を捨て去っていく人が後を絶ちません。
その光景は福島第一原子力発電所の周囲での、見慣れた風景になってしまいました。
そして福島県全体の市町村の悩みの種になっています。

Fukushima residents
しかし3.11の災害がもたらした被害について、必ずしも何が具体的なイメージを持つ必要は無いのかもしれません。
放射性物質、放射線には色も形も無く、触れることもできず、あたかも幽霊のような存在です。
しかしこの地においては、ありとあらゆる場所にまとわりついているのです。

〈 第6回につづく 〉

http://moreintelligentlife.com/content/features/anonymous/fukushima
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3.11の後のあらゆるライフラインの途絶から約2週間、私たちの生活はやっとインターネットを使えるところまで回復しました。
私はつかれたようにしてあらゆるサイトを検索し、福島第一原発の事故に関する情報を集めました。
そして何の情報も無い事故後の1週間で、私たちはそれと気づかないまま福島第一原発が吹き上げた放射性物質を浴びてしまったことを知ったのです。

あの時の無念さというものは、忘れられるものではありません。

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【 内戦という名の戦争、難民キャンプ、そしてずたずたにされた子供たちの心 】〈2〉

アメリカNBCニュース 3月11日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

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レバノンのベカー渓谷では約5,000人の国外脱出をしたシリア難民が、フェイダ・キャンプと呼ばれる場所で生活しています。
AP通信のニュース・カメラマン、ジェローム・ディレイとNBC放送の番組制作者である立花由香が2日間キャンプを訪問し、まだ成年に達していない戦争の生存者がどんな生活を強いられているか、取材と写真撮影を行いました。

母と兄弟姉妹6人で暮らすテントの中、ベッドの上のロキア(8歳)。
ロキアの父親は現在行方不明になっていますが、母親は子どもたちにいつか必ず帰ってくると言い聞かせています。
(写真上)

ヤムママ(4歳)と3人の姉妹たちは、戦争地帯で子供たちを育てることを嫌った母親により、2年前にシリアのホムスを脱出し、このキャンプに逃げ込みました。
父は未だ、シリア国内で働いています。(写真下・以下同じ)
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母親にすがりつく6歳のファーダ。自宅のすぐそばで迫撃砲弾が2発爆発して以来、彼女は大きな音を極端に嫌うようになりました。
現在は難民キャンプにいて砲弾が飛んでくる恐れは無くなりましたが、母親がバタンとドアを閉める音も恐ろしいと感じるようになってしまいました。
ファーダが母親のそばから離れることは、めったにありません。
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8歳のアブドル・カリムはちょうど1年前、シリアのホムスで父親が殺された後、母と兄と4人の姉妹と一緒にレバノンに逃れました。
「僕が一番年下だったので、お父さんはよく僕と一緒に遊んでくれました。だからお父さんのことは、良く覚えています。」
アブドルがこう話しました。
しかしアブドルの心の傷は、彼と友人たちが母親が『大虐殺』と呼んだ現場にたまたま居合わせたことで、一層悪化することになってしまいました。
アブドルは神経質そうに両手を何度も腿の上にこすり付けながら、次のように話してくれました。
「僕は友だちと一緒に、学校から帰る途中でした。たくさんの人が泣き叫び、取り乱していたのを覚えています。」
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10歳のラワー(写真左)は9ヵ月前、母、と3人の姉妹、3人の兄弟と一緒にシリアのホムスからフェイダ・キャンプに逃れてきました。
シリアでは爆弾が近くで爆発し、ラワーの目を傷つけました。
「友達と遊んでいたら、突然、爆発があったのです。」
瞳孔が傷つけられ、彼女の瞳は左右別の色になってしまいました。
ラワーは未だにその時の悪夢にうなされることがあります。
兄弟たちの父親は現在音信不通のままになっています。
母親のドーハがこう語りました。
「私は子どもたちに何と言っていいのか解りません。子供たちはもう、充分つらい目に遭ってきたのですから…」
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http://www.nbcnews.com/storyline/syrias-children/tiny-survivors-faces-endless-conflict-n49401

 

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