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【 原爆雲が湧き上がった時、長崎市民は恐ろしい犠牲を払わなければならなくなった 】

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所要時間 約 9分

すさまじいばかりの原爆の傷跡は長い間、学校におけるいじめ、社会的な差別へとつながってしまった
原爆被害に関するいかなる事実も公表を禁止、放射線障害に関する事実も隠ぺい、適切な治療が妨げられ死亡する例が相次いだ

エコノミスト  2015年8月1日

長崎原爆02
ウラニウム型原爆リトルボーイが広島市を壊滅させた3日後の1945年8月9日午前11時2分、アメリカは2発目となるプルトニウム型原爆を長崎市に投下しました。

その後の年月、長崎の被爆者(原爆の爆発の被害に遭った人々、あるいは原爆を投下された現地にいながら生き残ることができた人々)たちの物語は常に『広島に次ぐ』立場に置かれてきました。
世界初の核兵器使用による被害を象徴する世界で最も有名なシンボルは、常にヒロシマでした。

こうしたアンバランスこそ、長崎の原爆を生きのびた5人のティーンエイジャーに関するスーザン・サウザード氏による調査が正そうとするものに他なりません。

日本の戦争指導者たちが広島に投下された原爆の威力に衝撃を受け、どのような形で降伏すべきかの審議がすでに始まっていたその時、2発目の核爆弾が投下され70,000人の市民が殺され、その後も数多くの人命が喪われました。
この点から、長崎への原爆投下は初回の広島と比較して正当性に乏しいという議論が行なわれることになりました。

長崎06
その後しばらく、長崎市民は自分たちの都市が壊滅させられたことについて、広島の被爆者以上に冷静に運命を受け入れたのだと、多くの日本人が考えていました。
長崎市の北を流れる浦上川のそばに巨大な穴を掘ったのは原爆ではなく、日本の軍国主義であったと訴えたのは人々の尊敬を集めていたカトリックの司祭、永井孝史氏でした。
彼はやがて長崎の被爆者の心情の代弁者となりました。
「私たちは軍国主義に踊らされた挙句、自分たちでこの結末を引き寄せたのです。」
彼の眼に映る長崎は、世界平和の祭壇にいけにえとして捧げられた都市でした。
この見方は戦後日本を占領し、原爆に関する出版物すべてに厳しい監視の眼を光らせていたアメリカ軍当局も受け入れることになりました。

しかしサウザード氏が物語る若い主人公たちは違った見方をしています。
原爆について彼らを支配したのは寛容ではなく、怒りでした。

吉田勝二さんは13歳の時に爆心地から約1キロメートル離れた場所で、井戸から水を汲み上げている最中に被爆しました。

広島12
長い間、被爆者の人々はその時の状況について、妻や夫にすら話すことができませんでした。
焼けて炭化してしまった人間の胴体、切断された手足やぱっくりと口を開けた頭部、さらにひどいのは命は取り留めたものの眼窩から外に溶けだした眼球、原爆の熱線で体全体の皮膚が剥がれ落ち、焼けただれた地面の上を垂れ下がる自分の皮膚を引きずりながら歩いていた人々の姿。

16歳だった谷口稜曄(すみてる)さんは背中一面が焼けただれ、うつぶせになって苦しみながら、「こんな悲惨な体験を強いることになった戦争を防ぐために、何もしなかった両親や日本中のおとな達」に怒りを向けていました。

しかしこうした悲惨な体験を公表することは、占領軍を続けるアメリカ軍に対する憎悪をかきたてることになると判断した合衆国政府は、原爆被害に関するいかなる事実も公表を禁止しました。
同時にアメリカ国民に対して放射線障害に関する事実は隠ぺいされ、日本国内では研究結果の公表が禁止され、適切な治療が妨げられ死亡する例も相次ぎました。

長崎04
サウザード氏の著作で最も衝撃的なのは、被爆者が戦後占領軍、そして同じ日本人から受けなければならなかったネグレクトについてです。
厳しい検閲の実施は、1950年代に入るまで核兵器攻撃によって長崎や広島の人々がどれ程の苦痛を被ったのか、日本人の正しい理解を妨げることになりました。

この間亡くなることを免れても被爆者の人々は、日本政府の公的な援助を受けられないまま原爆症との戦いを続けなければなりませんでした。
被爆者の人々のひどい怪我や放射線障害による深刻な症状は、多くの場合国民健康保険や社会保険の対象にもなりませんでした。

そしてそのすさまじいばかりの傷跡は長い間、学校におけるいじめ、社会的な差別へとつながってしまったのです。

原爆症治療のための環境の整備と技術は、ゆっくりとしか進みませんでした。

広島12
わかっているだけで10,000人にのぼる韓国人被爆者が、日本人被爆者と同様の医療補償を受けられるようになるまでは11年がかかりました。
しかし補償を受けるためには、原爆が投下された時その場にいたことを証明できる日本人の証人を必要とする旨、法律に明文化されたのです。
しかし韓国人の多くは彼ら自身のコミュニティで暮らしていました。

「私の隣人は皆、原爆に殺されてしまいました。」
ひとりの韓国人被爆者がこう語りました。
「どうすれば彼らを証人として連れてくることができるのでしょうか?幽霊を連れてくるのですか?」
サウザード氏の著作は第二次世界大戦太平洋戦線におけるこれ以上の人的損害を防ぐ必要性がアメリカにあったこと、あるいは大日本帝国の軍隊による残虐行為と、原爆による悲惨な被害を対比させることはほとんどありません。

こうしたことからサウザード氏の著作は、アメリカが原爆=核兵器を使用したことに対する反論とも受け取られかねません。

長崎02
この著作においてはそれほど重要ではないと思われる結末において、最も強く訴えてくるのは被ばく者本人の個人的な思いです。
すなわち被爆者の人々が強い関心を寄せるのはアメリカを批難することではなく、この世界の核兵器の根絶を目指すキャンペーンへの取り組みです。

その成果は長崎、広島に原爆が投下されてから70年が経ち、被爆者の人々の寿命が尽きようとしている今になっても、ほとんど達成されていないのです。

http://www.economist.com/news/books-and-arts/21660070-terrible-price-citizens-nagasaki-paid-atom-bomb-when-cloud-parted?zid=306&ah=1b164dbd43b0cb27ba0d4c3b12a5e227
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【 1月29日の報道写真から 】

アメリカNBCニュース 1月29日

day01
2016年1月29日金曜日、アイオワ州スペンサー近くの日没の雪景色。
そして2月1日月曜日の夜、アイオワの住民はコミュニティ・センター、消防署、図書館に集まり、共和党、民主党の党公認大統領候補を決めるための討論会が開催されることになります。(写真上)

1月29日夕刻、マケドニアから国境を越えた場所にあるセルビアのプレセボで、北行きの列車を待つ間、たき火をして暖を取る中東難民。(写真下・以下同じ)
国連難民機関によると、2015年に地中海を横断してヨーロッパへ渡ろうとした難民の数は100万人を超えました。うち約半数近くがシリア難民です。
day02
1月30日、移民を載せて技師者へ向かう途中、トルコのアイバシーク沖のエーゲ海に浮かぶ転覆したボートの残骸。
この船は30日土曜日、岩に衝突して転覆、子ども5人を含め、少なくとも33人が死亡しました。残りの75人程は救助されました。
day03
1月30日、トルコのアイバシークの海岸に打ちあげられた幼児の遺体。
トルコの国営アナトリア通信社はこのボートに乗っていたのはミャンマー、アフガニスタン、シリアからの難民だったと語りました。
難民02
1月29日のシリアの首都ダマスカス郊外で、反乱軍の支配地域であるアルビーンの潜伏場所から政府軍の航空機の来襲を監視する反乱軍の兵士。
Day05
1月30日、マニラのヴィラモア空軍基地から日本に向かって離陸する天皇・皇后両陛下を乗せた旅客機に手を振る日本大使館のスタッフ。
day06
http://www.nbcnews.com/slideshow/today-pictures-january-30-n507796

 

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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