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【「私は戦争中の日本人を決して許さない!」泰緬鉄道から長崎まで:地獄を歩かされた英国人70年目の告発】《4》GRD

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所要時間 約 9分

ナガサキ…散乱する遺体、どれが人間の体でどれが違うのか、何もかも真っ黒で見分けがつかなくなっていた
捕虜収容所で日本兵に口にホースを突っ込まれ、胃が破裂するまで水を注ぎこまれ、死んでしまった父親
私は日本人が戦争中に行った行為を許すことはできない…戦争中の日本人はケダモノだった

ジ・オブザーバー / ザ・ガーディアン 7月26日

from Bruma
ブラス氏がいた捕虜収容所が解放されたのは1945年9月でした。
ブラス氏は地上にいる彼らに向けてビスケットやチーズを投下して行った、頭上のアメリカ軍機を鮮やかに記憶しています。

解放された連合軍の捕虜たちは、ほんの2、3週間前に原子爆弾を投下されたばかりの長崎に搬送されて行きました。
日本に投下された原子爆弾は1発目が広島、2発目が長崎で、戦争を早く終わらせるのに効果があったと考えられていました。

鉄道の駅のそばでトラックに乗せられたまま時間調整をしていた時、荷台に乗っていたブラス氏は付近を警備していたかつての捕虜収容所の日本兵と目が合いました。
この日本兵だけは一度も捕虜に暴力を振るったことがありませんでした。
警備員は、ブラに敬礼しました。
しかしブラス氏は目をそらし、敬礼を返すことを拒否しました。
「これまでずっと、私はその時の私の態度を後悔してきました。」
と、ブラス氏は言います。
「今でもその時のことを思い出し、考え込むことがあります。」

長崎01
ブラス氏が見た長崎は荒廃の極に達していました。
3km四方、見渡す限りの廃墟でした。
「目に入るものと言えば、焼け焦げた丘の連なりでした。真っ黒焦げです。その至る所に縦に亀裂が入っていました。
家々は完全に破壊され、がれきと石ころになっていました。
「あちこちに日本人がさ迷い歩いていて、アメリカ軍兵士に食料をくれるよう求めていましたが、アメリカ兵たちはそれを嫌がっていた様子でした。」
「私はある日本人男性の話を耳にしました。かれは誕生日に息子に自転車を買ってやったばかりでした。しかし原爆を投下された後、見つかったのは焼けこげた自転車だけでした。息子の姿は、影も形もありませんでした。」
「その自転車もねじまがった金属の塊に変わり果てていました。遺体も散乱していましたが、どれが人間の体で、どれがそうではないのか、見分けがつかなくなっていました。」
「何もかもが真っ黒に焦げていました、真っ黒ながれきにしか見えませんでした。」

長崎06
これ程の虐殺であったにも関わらず、ブラス氏は日本人に対する憐憫の情はわかなかったと告白しました。
彼が感じていたのは戦争を終わらせてくれた、アメリカに対する祝福の気持ちでした。
日本軍の捕虜になっていた中には、解放後に元いた場所に戻り原爆の犠牲者に対する哀悼の意を表した人もいましたが、ブラス氏はそうではありませんでした。
ブラス氏は原爆で黒焦げになって殺された、自転車に乗った男の子の事を気の毒に思っています。
「その特定の出来事のみ、私は気の毒に思っています。」

「けれども、私は日本人が戦争中に行った行為を許すことはできません。」
「戦争中の日本人はケダモノでした。」

収容所を出された後、ブラス氏が見聞きしたものは長崎の焼け焦げた自転車とかわいそうな男の子の話だけではありませんでした。
ブラス氏が決して許すことのできない日本軍の行為、彼の父もまたその犠牲になっていました。
それはブラス氏にとって大きな衝撃でした。

泰緬鉄道05
日本兵はブラス氏の父親の口にチューブを押し込み、際限もなく水を注ぎ込んだのです。
胃が破裂した父親はその事が原因で死亡しました。

意外な喜びもありました。
ブラス氏の4人の姉妹、そして兄弟全員が戦争を乗り切り、生き残ることが出来ました。
戦後、ブラス氏は母親とともにアムステルダムに移り住み、医学の勉強を再開しました。
しばらくの間、ブラス氏は兄弟とともにジャマイカのキングストンで働きましたが、そこで彼は後に妻となるスコットランド人の女性医師と出会いました。
1958年に彼らはウェールズのレクサムに住みつき、そこでブラス氏は開業医として30年間働きました。

「失われてしまった年月について振り返るとき、あなたは怒りを感じますか?」
こう私が訪ねると、彼は首を振りました。
なぜ?

「めぐりあわせとは不可思議なものです。」

香港・英軍捕虜
「これまで生きてきて、良いことも悪いこともありました。悪いことが起きたからと言って、そのいちいちに腹を立てる必要がありますか?私は人生が何であるかを理解した訳ではありません。ましてこの世に起きたことのすべてを理解できるはずがないのです。」
私を見つめるブラス氏の顔には、その人柄をしのばせる微笑みが広がっていました。

1945年9月、捕虜仲間がブラス氏の肖像を描いた鉛筆のデッサン画が残っています。
デッサンの中のブラス氏は整った顔立ちで、3年間の強制労働を伴った幽閉生活にもかかわらず、その視線の先には希望が見えているようです。

現在、ブラス氏の顔にはしわが刻まれ、その体には骨が浮き出していますが、全体的な力強さは奇跡的と言って良いかもしれません。
背中もまっすぐに伸び、その目は今なお人々の中に前向きなものを見出そうとしているようです。

もちろん彼の中には触れれば激痛が走る心の傷が隠されています。
しかしそれは心の奥深く隠されると同時に、そこには決して折れることの無い鉄の意思が同居しています。

Jean Brass
彼はこれからも許すことはありません。

敬礼を返すこともしないでしょう。

そして叩かれても蹴られても、倒れることはありません。

ジャン・ブラス氏92歳。
彼は杖なしで歩きビスケットをかじりながら、毎日毎日心の中で戦っているのです。

〈 完 〉
http://www.theguardian.com/world/2015/jul/26/nagasaki-man-who-walked-through-hell-jan-bras
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【 ヒロシマ:70回目の追悼 】

アメリカNBCニュース 8月6日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

広島21
ヒロシマへの原爆投下時刻は1945年8月6日の午前8時15分でしたが、廃墟の中からその時刻で止まった時計が見つかりました。文字盤の「8」の時の上には小さな手の形の影が見えますが、これは爆発によって焼きつけられたものです。(写真上)

1945年8月6日、原爆投下直後の広島。爆炎は6,000メートルの高さに達しました。
それから数日して、第二次世界大戦(太平洋戦争)は終了しました。(写真下・以下同じ)
広島22
8月5日夜、広島で原子爆弾の投下の犠牲者を追悼するための式典前日、提灯を捧げ持ち原爆ドーム前の橋を渡る人々。
広島23
8月5日夜、原爆の犠牲者を悼むため、持参した提灯に火をともす女性。
広島24
8月6日、70回目の広島原爆犠牲者追悼式典で、花を捧げる人々。
原爆はその場で70,000人の市民を殺戮、その後の年月でさらなる人々が放射線障害により亡くなりました。
広島25
8月6日、広島平和祈念公園での祈りの後、涙を拭う女性。
広島26
8月6日、広島平和祈念公園で犠牲者に祈りを捧げる女性。
広島27
http://www.nbcnews.com/news/photo/today-pictures-august-9-n406801

 

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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